富野由悠季原作、閃光のハサウェイが5月に劇場公開されますね。
監督は富野さんではありませんが、正直なところ制作が決まった時は、え、アレ映画にするの?でした。
さて、そんな閃ハサですが、私は微妙にガンダム世代ではなかったりするんですけど、何故か富野由悠季さんの小説はエグいのも含めて一通り読んでいたので、それらを踏まえていくつかお話したいと思います。
どんなお話? おもしろい? つまらない?
そもそもの閃光のハサウェイという作品は、富野作品のガンダムシリーズの中でも異端の作品で、本編に連なる内容でありながらも、ちょっとスピンオフ的な扱いの作品だと思います。
主人公は、劇場版νガンダムに出演した、ブライト・ノアの息子、ハサウェイ・ノアですね。そしてお話の方は──簡潔に言ってしまうと「シャア&アムロといったνガンダム時のNTたちの活躍に”あてられた”ハサウェイが、自分も同じことができるかも、とイキってズッコケるお話」です。
全体としては、富野由悠季お馴染みの「取り返しのつかないことをやらかした青年の成長譚」であって、しっかりと作られていておもしろいのですが、映像化された他のガンダムシリーズと比べると、ちょっと結末が忍びない感じです。
いや、富野由悠季というクリエイターを知っていれば、それは許容範囲ではありますが、少なくとも、当時の時点では、富野由悠季の他のアクの強いほうの原作小説郡と同じように、あまり映画化には向いてないものでした。
あまり映画化には向いていない作品
そもそも、主人公がハサウェイという、地味な子なんですよね。
ガンダムファンならおなじみの、カツに並ぶアレなキャラでもあります。νガンダムでチェーンを殺したりしてますしね(そのおかげでサイコフレームが拡散して共鳴によってアクシズの地球落下が防がれてはいますけど)。
また、お話も通常のガンダム映像作品に比べると、ちょっと分かりづらいんです。ハサウェイは劇中において、回りくどい行動をいろいろとしていて、行動動機が掴みづらいんですよね。
さらに、ヒロインに問題がありまして──たぶん、劇場版では年齢は濁されると思うんですけど、同作のヒロイン、ギギ・アンダルシアという少女はローティーン(確か14歳とか?)で、しかも大金持ちの愛人なんですよ。稚すぎて、今だとNGですよね。劇場版のキャラデザみると大人にされていますね。
さらにさらに、結末も含めて、富野由悠季の黒いほうがたっぷりと込められていて、あんまりエンターテイメント作品にしづらい、大人向けのちょっと地味なお話だったりするんですよね。
でも、劇場版アニメ化するという判断をした、と。
富野由悠季が同作に込めていたもの
30年前の富野由悠季さんが、同作に何を込めていたのかわかりませんが、創作の発端として、なんとなく感じるのは、νガンダムでクエスの死を目撃した、ハサウェイの感情への決着ですよね。そして、そこから並行して展開するのが、作中でも言及されているとおり、多少なりともニュータイプ能力がありながらも、シャアにもアムロにもなれそうにないハサウェイという人物の葛藤です。
そういうハサウェイの、極めてパーソナル物語です。
ガンダムやニュータイプうんぬんという世界観において、この閃光のハサウェイというのは、どうみても独立したパーソナルな物語であり、スピンオフなんですよね。
しかし、映画化の経緯については、何やらこれが、令和の今には時代と合致するメッセージを内包したものになっているから、という話があるらしいんです。
そういう話が、前情報として富野由悠季さん自身の口から語られていました。
ニュータイプになりきれなかった主人公ハサウェイ=視聴者
以下、劇場公開に際して、富野由悠季さんが同作に寄せた言葉です。
”30年ちかく前に書いたノベルスの映画化は、原作者として嬉しい。まさかという驚きがあった、しかも三部作。製作関係各位から、本作のテーマは現代にこそ必要だと判断をされてのことだと聞けば、あらためて内容をチェックした。そして、また呆然とした。
現実の世界は進歩などはしないで、後退しているかも知れないのだ。だから、ガンダムのファンの皆々様方が牽引してくださった道筋があったおかげで、今日、本作のテーマが現実にたいして突きつける意味があると知ったのである。”
ここから読み取れるのは、なるほど30〜40年以上前にニュータイプという概念を世に発信しながらも、誰もニュータイプになっていない現在というのを、ひょっとしたら閃光のハサウェイという作品は、うまく表すものになるのかもしれない、ということですよね。
そうです。ハサウェイという登場人物は、NTの成り損ないなんです。
シャアにもアムロにもニュータイプ能力でも思想でもどうも追いつけない。なんとかテロ組織めいたものを作ってみた訳なんですけど、いろいろとうまくいかない。アムロやシャアのように奇跡を起こせなかった主人公なんです。
この閃光のハサウェイというのは、今にして思うと、時代とのズレというのがよく現れていた作品かもしれないですね。
1stガンダムが放映された当時というのは、世界は冷戦時代に突入し、欧米では学生運動やヒッピー文化をふくむニューエイジという世代がもてはやされた時代でした。
で、ガンダムという作品は同時期のSFなんかも参考にしつつ、思想的には人類の革新という形でニューエイジが標榜する人の新しいあり方を理念として映像化してみせたわけです。
しかし、結局、ヒッピー文化も学生運動もニューエイジも、今に残ることはなく、資本主義に飲み込まれて消えてしまった。後には消費社会によってジリ貧になった人の営みだけが残った。ガンダムのほうも玩具ばかり先行してニュータイプというのはオマケみたいなものになってしまった。これはニュータイプという概念を提示されながらも、何一つ新しいものにできなかった、ハサウェイ=当時の視聴者と同じってことなんでしょうね。
なるほど、そういう意味であれば確かに閃光のハサウェイは令和の今にも合致しそうですね。
エヴァに答えが出たようにガンダムにも答えが出るのか?
ここの所、立て続けに世の中の作品が”まとめ”に入っていますよね。
その中には4月に封切られたエヴァンゲリオンも含まれています。で、あっちは、庵野秀明が、ヲタ文化の集大成であった「エヴァンゲリオン」に一つ決着を付けてきました。
オタク的営みのその向こう側には、人類補完計画も新世紀も存在せずに、少年は神話になれない。庵野監督は、本当は、ただ好きな人とキャッキャウフフする日々こそが大切なんだ、というような真希波マリ=安野モヨコエンドに持ち込みました。
そして、富野由悠季という監督は、ガンダムというコンテンツに決着をつけるために、Zガンダムの結末を変えたり、ターンAをやったり、レコンキスタをやったりした訳ですが──しかし一方で玩具としてのガンダムは、富野監督の標榜する思想から切り離されて一人歩きしてしまった。
ここについては、下記のとおり富野由悠季さんの同作によせたメッセージから、忸怩たる思いが見て取れます。
”すなわち、大人になったガンダムファン世代は、ファンの力だけではリアリズムの閉塞感と後退感を突破する力はなかったと自覚もしたからこそ、その申し送りを本作に託していらっしゃるのではないかとも想像するのだ。”
では、エヴァと同じようにハサウェイはガンダムシリーズの一つの区切りとなる作品になりうるのか? 閃光のハサウェイの原作のあの結末もうまくすれば、シン・エヴァみたいな区切りにできる気がしないでもありませんが──監督が富野由悠季さんじゃないんですよね。
個人的には「どうせ商業主義に絡め取られて、意図したメッセージは機能しないんじゃない?」という言葉が、監督のよせた小言に込められているような気がしないでもないですが、何れにせよ、ニュータイプになれなかったおじさんたちは、ハサウェイの行く末を、カツらに生じたものと同じような近親憎悪をまじえつつ、座して見たほうが良いと思うのです。
私も見ますが──さて閃ハサ、どんなメッセージが込められた作品になっているんでしょうね?
監督は伊藤計劃の虐殺器官のアニメ化やった村瀬修功さん。いちおう? F91で作画監督をやっているので、富野由悠季という人が何を考えているかは分かってそうですよね。そして、そんな監督がどこまでハメを外して富野的な物を込められるか、そのあたりに期待したいと思います。