結局劇場には行かず、アマプラでみた閃光のハサウェイの感想です。
単純にいって、ちゃんと富野ガンダムしてましたね。
あたりまえですよね、監督が富野ガンダムの作監の人で、原作が富野小説ですから、会話や展開が富野風になるのもうなずけます。
ただし、それ以外の部分は同作監督の挑戦みたいなものが込められていて、とってもスタイリッシュだったし、なにより好感がもてました。
昨今のアニメにはあんまりない生っぽい部分へのアプローチもしていて、そこから転じて、各方面で男子を虜にしたギギ・アンダルシアがとっても魅力的でしたね。
エキセントリック女子に殺られる今どき男子たち
ガンダムってエキセントリックな女子が結構でてきますよね。そして、この閃ハサでも主人公はエキセントリック女子に翻弄される訳ですけど、こういうギギ・アンダルシア的な「テンプレにおさまらない」女子って最近の作品だといないですよね。
最近のコンテンツって、わりとどんなキャラも「テンプレ」なんですよね。病んでるキャラもキチガイキャラも、その分類がわりと決まっています。
でも、富野作品の女性キャラというのは、だいたい「支離滅裂」なんですよね。テンプレに収まらない。
急にブチ切れたり衝動的に「ウフフ」と笑いながら走りだしたりしますしね。だからこそ生々しいんですよね。そして、ネットをみているとそれに「殺られた」人をちらほら見かけました。
なれない人にはあの生っぽさは衝撃的だったのではないでしょうか?監督もそれをわかっているから、あざといカットをいくつかいれていましたね。パンツ見えそうで見えないし。
アムロやシャアになれない人に向けた作品
さて、もう一つ気づいたところ。
これはようするに、アムロやシャアになれなかったハサウェイの物語ですよね。天才とか突破者になれないけど、一般人として最大限努力している青年のお話です。
で、そういうふうに見ていくとヒシヒシと感じるんですよ。富野由悠季になろうとしてなれなかった監督(村瀬修功さん)やスタッフや、視聴者世代の情念みたいなものを。
同作のハサウェイは陰キャで、クェスに執着し、アムロやシャアの幻影を追い求めている。そして、ケネス大佐もそういう「伝説の世代」に対する、諦めみたいなものがあるんですが、それがNTの残り香ともいえる「ギギ」という存在をみつけたことで、ギギを巡って争うというお話になっています。
そして結末を私は知っているんですが──この作品の結末は不毛に終わるんですよね。それは、アムロ=富野なNTに至れなかったガンダム世代に対する皮肉にみえます。これを今の時代に創る、という状況も含めて。
スタイリッシュにまとめてますけど、村瀬監督は「富野由悠季というたんこぶ」を常に意識していて、それが痛いほど伝わってきました。さらに、富野由悠季監督が同作映画化に際してよせた言葉「ハサウェイ的なものが求められている今に衝撃を感じた(たしかそんな事を言ってた)」という言葉も、ちょっと違って見えてきました。
つまりは劇場版閃光のハサウェイは、NTを提唱しながらも世の人々をNTにさせてあげられなかった富野監督と、NTになれなかった世代に捧げられた、けっこう象徴的なガンダム作品かもしれません。福井版ユニコーンのファンムービー的なものとはまた違った味わいがありました。
続編はどうなる?
見ている感じ結構原作準拠で、展開は素直に作ってくると思いますけど、一方で、当時にはなかった「今」を作品にどう取り込んでくるのかが、そのあたりを見るのが楽しみですよね。
劇場版同作でいうと、マフティ襲撃時のギギとハサウェイの生身の逃避行は原作にはないかなり象徴的な描き方をしていました。あの一連のシーンは、リーダーを務めながらも青年としてのハサウェイの無力さみたいなものが伝わってきて、それがギギの愛おしい存在感と重なって、そうとう良いシーンになっていたと思います。
村瀬監督は同作品でそういう「富野由悠季をふりはらう」演出チャレンジをしていました。
ですから、引き続き期待したいのは、村瀬修功監督がどう富野監督の幻影を振り払うのということです。そこから転じて、アムロやシャア(富野)になれない、ハサウェイとケネス(監督やファン)は在りし日のNTや、ギギ的な幻想NT美少女とどう折り合いをつけるのかということが気になって来ます。
そしてもう一つはブライトやミライがどうハサウェイに絡んでくるか、ですね。続編でブライト・ノアが出てくると思うんですが、グイン・サーガ的な父殺しはしないながらも、ハサウェイの立場は父親超えへのチャレンジでもあるんですよね。
そういう関係も旧作富野と同作のポジション状況に重ねられると思うので、そのあたりがどう作品に影響してくるのか楽しみにしたいと思います。
そんなこんなで、引き続き期待感の高い作品となりそうです。