シン・エヴァンゲリオン、面白かったですね(賛否ありますが、私は満足でした)。
さて、シン・エヴァンゲリオンの監督といえば、庵野秀明監督ですが、庵野秀明には師匠的立場に宮崎駿がいます。かつてナウシカの時に、宮崎駿に薫陶を受けていたといいます。その縁は長きに渡って続き、後年には風立ちぬの声優をやることになる訳です。
庵野秀明とジブリとの関係はかなり深く、ある時、ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さん経由で、ナウシカ2を撮らせてもらえないか、というような打診をしたこともあったとか。宮崎駿監督はナウシカ2の許可を出さなかったようですが、後年すこし意見を軟化させているようでした。
現時点で、庵野秀明がナウシカ2を撮るという企画はありません。ですが、もしナウシカ2をやるようになることがあるとすれば、それは弟子が師匠の仕事を引き継ぐということになります。
今回、エヴァンゲリオンの完結という大きなターニングポイントがあったタイミングで、改めて庵野秀明というアニメーション監督が、宮崎駿の後継者たりえるのか、という点について解説してみたいと思います。
ちょっと固い話です。やや未整理なので後で修正するかも。
庵野秀明と宮崎駿の特徴や共通性
庵野秀明と宮崎駿それぞれの特徴と、共通点について、まず軽く説明したいと思います。
まず庵野秀明です。
彼は現代の日本におけるアニメーション技法の天才の一人ですよね。エヴァンゲリオンは、旧作から今に続くまで、かならず、日本における時代の最先端のアニメーション技法が注ぎ込まれています。カットやシーンも、庵野秀明監督の考えつくされたセンスが反映された、凄まじいものになっていました。
加えて、劇中における魅力的なキャラクターや設定の数々、そして衝撃的なシーンや物語展開は、旧作TV版のエヴァンゲリオンの頃から特徴的なものとなっていました。
その映像は、いままで誰も見たことがないもので、あのアニメーションによって、日本のアニメは一つ次のステージへと引き上げられたんじゃないかと思っています。
そういうことをやってのけた、アニメ監督にして、アニメーターが庵野秀明という人でした。
次に宮崎駿。
彼は、日本人の殆どの人が知っている、国民的アニメーション監督です。庵野秀明という才能が、メカやカットや斬新な映像表現に最も秀でているアニメーターだとしたら、宮崎駿という監督は、それよりもずっとオールマイティに物をこなすことが出来る監督です。
庵野監督は、キャラが苦手ですが、宮崎駿はキャラから風景からメカから何でもこなします。奥行き、質感や慣性の宿ったアニメーション用エフェクトを描かせたら世界一であると、鈴木敏夫さんからも言われています。
どちらも、天才であることには代わりありませんが、万能具合でいえば宮崎駿に軍配があがるでしょうか。しかし映画は一人でつくるものではありませんから、庵野秀明が多くの信頼できるスタッフをかかえることによって、宮崎駿に比類するアニメ技法を実現してきました。
さて、二人の共通性はどうでしょうか?
二人共、監督業をしています。
そしてアニメーター出身です。
メカが好きです。
というか、二人とも間違いなく「オタク」です。つまりベースとしては、二人はけっこう似通っていると思うんですよね。
ただ、細かく見ていくと、際立って違いが目立つというのも事実としてありますよね。
庵野秀明と宮崎駿の決定的な違いについて
アニメーション技法については、それぞれ特徴的なところを持ち、比類ないお二人ですが、その根底にある、作品の作り方については、大きな違いがあります。
それは、主に作品の社会性や思想性の有無について。
庵野秀明というカントクは、類まれなるアニメーション技法の人であり、エンターテナーです。衝撃的なアニメーションを見たいと思うファンのために、その時代の最上位にあるアニメを作って提供することを第一に考える、アニメファンの方をむいたアニメーション監督です。
対して、宮崎駿という監督は、アニメーション技法に秀でつつも、その根底には自身が考える物事の思想が色濃く現れる作家です。
庵野監督が技法を見せるためにアニメーションを作っているとするならば、宮崎駿は思想を伝えるためにアニメーションを作っています。
ここが決定的な違いになっています。
そもそも、庵野秀明監督の作品には、庵野監督自身の思想的なメッセージや社会への提言というものがあまり含まれていません。彼の作品においては、エヴァンゲリオンもナディアもシン・ゴジラも、作品のエンターテイメント性を第一に考えたときの、後付け思想であって、彼自身がそれをそう思っているとか、何かメッセージを発進したいとか、社会をより良くしたいとか、そういう思想をもって作品を作っている訳ではありません。※それについては一連の過去記事のとおり。
それは、エヴァンゲリオンという作品の旧作が迷走したことからも明らかです。彼は思想を持っていなかったがゆえに、オチが決められなかった。広げた風呂敷をたたむためには、世界はこうあるべき、人はこうあるべき、という思想が必要です。しかし、旧作エヴァンゲリオンにおける庵野秀明という人は、そういう「人類あるべき論」が希薄であったために、物語を終わらせることが出来なかった。この決着は、24年後の今回のシン・エヴァンゲリオンまでひっぱることになりました。
それに対して宮崎駿という監督は、常に思想の人でした。
ものを作る時に、子供はこうあるべき、大人はこうあるべき、善は、悪は、敵は、味方は、こうあるべき、という、社会に向けた倫理のスタンダードとなるものを、必ず織り込んできます。
宮崎駿は、先鋭的であっても、まず普遍的なメッセージありきで、作品が構築されています。
なぜそんな違いが出たのでしょうか?
庵野秀明と宮崎駿が体験した時代の違い
ご存知の方がいらっしゃるかもしれませんが、宮崎駿というのは戦中世代ですよね。彼は幼少時、生家の近辺で空襲を経験しています。さらに、宮崎駿は労働争議や学生運動に関わった世代でもあります。
宮崎駿の学生から初期の社会人であった時代というのは、戦争と敗戦の反動によって、マルキストが台頭し、インテリたちが世の表舞台で言論を熱く交わした時代でした。そして、宮崎駿の尊敬する師匠にあたる高畑勲は、東大の仏文科を卒業したバリバリのインテリであり、知識人でした。
宮崎駿は高畑勲や時代の空気から思想をもって何かを取り組むことが、大切であるということを、身にしみて体験している世代です。
ですから、何かを作るということは、何かを伝えることであり、更にいうと、それは社会的意義がなければいけな、と考えています。その思想とエンターテイメントが絶妙に同居した、子供向け作品を作るに至っています。
対して、庵野秀明というのは、学生運動が一段落をした高度経済成長期に青春時代を過ごした人物です。高度経済成長期は、虚飾にまみれつつも新たなカルチャーが発露し、誰もが新しいエンターテイメントを求めた時代でした。
また、はじめて世に「オタク」と呼ばれる、こだわりをもって物事を見る世代が現れた時代でもありました。
オタクたちというのは、モノづくりにおいて、それが心地よいか悪いかだけで判断することが特徴です。そこには「世はこうあるべき」というような思想は持ち合わせていません。むしろ、学生運動の反動から、そういった政治的、社会的思想を持っている人たちを忌避すらしていたと思います。
そういう、経験を経たクリエイターがたどり着くのが、思想性のある作品ではなく、技法を深堀りしたエヴァンゲリオンというアニメーションであったというのは、大いに納得できるものがあります。
この、作品に込められた思想のありなしが、庵野秀明と宮崎駿の大きな違いとなっているのです。
思想のありやなしやで何が変わるのか?
さて、ここでようやく表題にある「後継者」という話をしたいと思います。
私は、国民的映画監督になるには、思想性の有無というのは非常に重要だと思っています。
宮崎駿は思想をもったエンターテナーです。それが、視聴者にどういう影響をあたえるのかというと──例をあげるとするならば、例えば、日本人の特定世代の倫理観というのは、わたしはジブリによって形作られたと思っています。
ジブリ映画というのは、曇りなき眼を持った男子のありかた、健やかなる魅力をもった女子のありかた、正義のありかた、悪に対する振る舞い、年上や年下、家族との関係、そういったものを伸びやかに描いてきました。
これらは、若年世代のメンタルに深く刻み込められています。ジブリを体験した日本人にとっての善悪をふくむ倫理基準というのは、ジブリの影響がとても大きいと思っています。
要するに国民的映画監督の役目というのは、ある種社会的倫理や振る舞いを形作ることでもあると思うのです。国民的アニメーションというのは、正しい思想でもって世に提示されなければならない。
例えば、新海誠の天気の子という作品は、新時代の倫理観を示した作品になっていたと思います。主人公たちは貧困の中にあって特殊な力をもっていましたが、それを世界ではなく自分たちのために使うことを選びました。あれは賛否ある結末ですが、新海誠からの世代に対するメッセージです。世界の為に君は死ぬ必要はない、というような。
これが、思想です。
こういったものを物語に織り込むには、日々社会や日常や人々について考えていなければなりません。つまりは、学生運動や労働争議を経験した宮崎駿という監督は、昔から、そういう事を考えてきたからこそ、ナチュラルに物語に、正しい倫理観や思想を織り込むことができるのです。
他方、庵野秀明はどうでしょうか? 旧作エヴァまでの作品内には、思想はほとんど存在せず、ただ技術としてのエンターテイメントがあるだけでした。
個人的には以前の庵野秀明というのは、宮崎駿の後継者たり得なかったと思います。
では今はどうでしょうか?
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||で庵野秀明は初めて思想を見せた
実は、シン・エヴァンゲリオンという映画は、はじめて、庵野監督の思想めいた織り込まれていました。
それは、別記事でも書きましたが、極めて普遍的なものでありスタンダードなものです。宮崎駿にくらべると、とてもあたりまえで、少しやや安っぽい思想になっています。
それでも、庵野秀明という人は、作品内で初めて、自身の生きることについての考えを述べてきたと思っています。
これは、私的には本当に庵野秀明という監督のターニングポイント担ったと思っています。ようやく、庵野秀明という人は、自らの社会的な意見を作品に込めるようになったんだな、と。
ただ、一方で彼が後継者たることを望まなければ、それは今回の一回こっきりかもしれません。例えば今作っているシン・ウルトラマンという映画は、おそらく技法に走ったエンターテイメントになるでしょう。そこには、シン・ゴジラのスクラップアンドビルドの話のように、物語用にあつらえた思想しか付与されないかもしれません。
つまり、結論としては「後継者たる可能性は示したが、そうなるかどうかはわからない」ということでしょうね。正直な所、庵野秀明が宮崎駿の後継者である必要もないんですけどね。二人共すごくて、二人共別物でも全く問題ない。
別に真似る必要もないし、似る必要もないですしね。
しかし一方で、今回のシン・エヴァンゲリオンの結末とそこに込められた思想というのは、その先にある、新しい庵野作品を期待させるものでもあります。
もしナウシカ2を作ることになるなら、そこには師匠の意を汲んだ上での、庵野秀明なりの、新しい世界と社会と人についての提言を込めてほしいなって思うのです。
それがなされたら、庵野秀明というのは本当に宮崎駿の後継者になるのだろうな、と思っています。