鬼滅の刃遊廓編のタブー〜炎上に至った歴史背景は? そこから見出す堕姫と妓夫太郎の物語における意義は?

鬼滅の刃
この記事は約8分で読めます。
スポンサーリンク

今回は、鬼滅の刃の遊郭編のタブーについてと、妓夫太郎と堕姫のお話したいと思います。

以前、遊郭編は、子供向けとしてどうなの、なんて、お話がありましたね。結局、放映についてはなんの問題もなかった訳ですが、では世の中の懸念したタブーとは何だったのでしょうか? ちょっと調べてみたので、遊郭編の舞台の裏側にあるヤバい所を解説したいと思います。

で、ヤバいといえば、遊廓は性を売り物にするというところもあるんですが、それ以上に「年季奉公」というシステムがヤバかったですね。

年季奉公ヤバい

年季奉公、マジヤベーですよ。

日本の古いドラマで「奉公に出す」という言葉を聞いたことがある人もいると思います。

これは、かつて日本にあった、一家の子供を幼いうちから働きに出すシステムで、要するに貧しい家が子供を裕福な家で労働させて、賃金を前払いでもらうようなシステムです。

ていうか、ぶっちゃけ人身売買なんですけど、日本にかつてそういうものがあったんですよね。

※いちおう表向きは、お国の決め事で年季奉公は、最長10年という制限があった。

そして遊郭の世界でも、この年季奉公というシステムは古くからありました。

遊廓は、貧しい家の子供が7歳〜8歳とかで売られるんですけど、従事するのは性産業なわけですよね。ですから、多くの子供は、ある一定の年齢に差し掛かると、客を取る仕事に従事させられていました。それも、ほぼ強制的に。

賃金前払いで両親らにお金を払った上に、自分の幼少時の食い扶持まで借金になります。その返済を身体でしいられるんですね。

ヤクザに借金をして、風俗で働かされるというような話はフィクションでもよくありますけど、しかしヤクザのビジネスは、借金の返済義務こそあれ、強制労働については犯罪です。

だけど、昔の日本では、ほぼ奴隷に近い扱いで、幼少時から人が労務を強いられた歴史があるってことです。これが現代から見た遊郭の一番の影の部分でありタブーですよね。

さて、さらにもう少し遊廓について解説します。

遊女の待遇

強制労働させられた遊女とは、どういった待遇だったのか?

売られてきた子どもたちは、幼い頃は禿(カムロ)という名称で呼ばれて、先輩の遊女や花魁や太夫の身の回りの手伝いをしていました。子供ながらに遊ぶ暇はありません。ずっーと、労働です。また労働がない間は、芸の修練をしいられました。今ならもうこの環境でアウトなんですけど、当時はそれが当たり前でした。売られてきた子どもたちは、その労働と芸の練習を通して、遊廓のなんたるかを学びます。そのあとで、だいたい15歳くらいで、初めて客をとります。

そして、遊女としての生活が始まるわけですが、過酷な労働環境は続きます。雑務からは開放されましたが、こんどはひたすら客をとる羽目になります。遊女というのは身体にとんでもなく負担がかかる仕事でした。

悩みは忙しさだけじゃありません。遊女は性風俗ですから、当然、性病が悩みとしてありました。当時は抗生物質がないので、性病になったら、とんでもなく苦しむし、最悪死ぬこともありました。

病気になって回復の見込みがないと満足に世話もしてもらえずに、遊郭の貧民街に追い出されることもありました。ちなみに、劇中において、妓夫太郎と堕姫の生まれた場所として、羅生門河岸(らしょうもんかし)という地名が出てきますが、あれは吉原にあった実際のダウンタウンです。

仕事があまりにも辛いので、遊郭では夜逃げや駆け落ちがありました。遊女は、客に惚れるのはご法度ですし、逃げ出すのもご法度だったのですが、それをするものがしばしばいました。

だけど、多くは遊郭に連れ戻されて、見せしめとして、ものすごい折檻をうけることになったといいます。

逃げ出した人への折檻があまりにもひどかったから、それを目撃したカムロが、ショックで自殺をしてしまった、という逸話も残っているくらいでした。

一方で、闇もあれば光もあるのが遊郭の世界です。ごく一握りの遊女は、その遊郭におけるトップへと上りつめるのです。トップの遊女は太夫もしくは花魁とよばれ、すさまじくお金を稼いでいました。

どれくらい稼ぐかというと、簡単に言えば、新卒の年収を一日で稼ぐ、みたいなノリです。さらに太夫や花魁となると、遊郭での立場は雇い主を超えるものになります。店の主人も敬語をつかっていました。

ただし、そこにたどり着くには、芸ができないといけません。三味線とか舞踊とか。それから会話も面白くないといけません。恋や夜のテクニックもなきゃいけません。品位をもって、さまざまなスキルを身につける必要がありました。そこにたどり着けるのは、才能と運と高度な芸事を身に着けた本当に一握りの人だけでした。

遊女の発祥

というか、そもそも、遊郭というのは性を売るためにはじまったものではありませんでした。

古くは豊臣秀吉の時代、京都島原で「芸」を売るサービスとして発達した、お座敷エンタメ産業でした。

イメージでいうと才能ある人にパトロンやタニマチがついていて、お金を援助して貰う代わりに、芸能と、必要に応じて性を提供する、ということをしたのが遊郭の始まりです。

今で言えば、エイベックスの◯◯さんと××さんみたいな関係です。それが、時代とともに性をうるビジネスの側面が発達していったということですね。

初期の遊女のトップは太夫と呼ばれていたんですが、身分もけっこう高かったんですよ。なんと、すごいことに官位をもっていました。官位というのは上流階級に与えられる序列の称号ですね。正五位という位なんですけども、これは公家や武家を相手にすることからちゃんとした官位を与えられたということらしいです。

以上のように闇だけでなく、まばゆいばかりの光もあるのが遊郭の世界だということです。

これらの光と闇がくっきりと分かれた環境は、遊廓の中に様々なドラマを生み出していました。それは、物語の舞台として遊廓を選ぶ理由の一つなのだと思います。

堕姫と妓夫太郎の考察

ここからは遊廓編における主要な鬼である、妓夫太郎と堕姫の話をしたいと思います。

さて、だきの本名は梅といいますが、これは、母親の死の原因から名付けられた事になっています。

梅の付く病気といえば梅毒ですよね。梅毒は、性を売る遊女とは切っても切れない病気でした。

梅毒は、大航海時代に世界中で蔓延した性病の一つです。抗生物質のない当時はほぼ不治の病であり、死に至る疾患でした。ぎゅうたろうの顔が醜いのは、母親から感染した先天性の梅毒のせいであったかもしれません。

梅毒、ヤバいですね。

そして、堕姫の母が梅毒だったということは、つまり母親も遊女だったということです。梅は、美しい少女でしたが、かつてはその母親も花魁を目指した美貌の女性だったと考えられます。

興味深いと思えるのは、本編において堕姫は、鬼であるにもかかわらず、蕨姫花魁という名で、最上位の遊女として活動していることです。

そもそも、鬼になって力を得たなら、わざわざ辛い場所に執着する必要も無いのです。しかし彼らは遊廓という世界に残ることを選んでいました。鬼滅における鬼が、死ぬ直前に抱いていた物事に執着する、というのは理解できますが、堕姫は、さらにそこから花魁にまで上り詰めているというのが凄いのです。

先に述べたように、遊廓というのは、恐怖や暴力によってのし上がることは出来ません。地道にファンを得るしかないのです。遊女として客の心を掴むには、美しさだけではない、さまざまな芸のスキルや振る舞いやちゃんとした話術が必要です。つまりは、劇中において堕姫は、花魁となるために、鬼でありながら人のふりをして、芸を身に着け、客の心を掴み、その地位にのし上がったということなんですよね。

おそらく、蘇った梅に妓夫太郎が「どうしたい?」と尋ねたときに「花魁になりたい」と梅は応えたのでしょう。そして妓夫太郎は、それを手伝った。妓夫太郎は「あいつは殺してもいい」「あいつは殺しちゃいけない」「芸はおぼえろ」等の指示を出して、それを鬼として実現したってことです。

このあたりは、鬼としての活動の他に、二人の試行錯誤ややりとりが想像できてちょっと面白いと思うのです。もっともその過程で、沢山の人を殺しているのでしょうけど。

鬼兄妹に与えられた役割。

遊廓において凄まじい過去をもった妓夫太郎と堕姫ですが、では彼らは、物語において、どんな役割を持った存在だったのでしょうか?

これは、劇中でもやんわり明されていますが、炭治郎と禰豆子が、もし鬼になっていたら、という話ですよね。彼らが道を踏み外したならどうなっていたか? その”もし”の存在として妓夫太郎と堕姫が設定されているのです。

炭治郎と禰豆子は、山奥の炭焼き場の子として生まれました。貧乏ながらもそれなりに幸せな生活を送ることが出来ていました。

しかし、二人がこのヤバい遊郭に生まれていたらどうなっていたでしょうか?ちょっとした運が、同じような兄妹の道筋を変えてしまったという皮肉を描いているのです。

鬼に堕ちて尚変わらぬもの。

妓夫太郎と堕姫との間には、兄妹の絆がありました。それは鬼になった後も色濃くのこって消えませんでした。これは、鬼舞辻無惨をして「兄妹の絆や執着があったから負けたのだ」という話になるんですが、本質的には、ちょっと違いますよね。

二人が鬼になったのは、劇中の不幸から抜け出す手段がそれしかなかったからです。妓夫太郎は梅を助けるために鬼となる道を選びましたが、これは、妹への気持ちの強さで未来を切り開いた、ということでもあります。人は時に生き残るためにタブーへと踏み入る「やむにやまれぬ選択」があるのだ、という話です。

鬼滅の刃における、炭治郎と禰豆子の互いを想い合う姿というのは、まったく正しいものなんですけど、一方で妓夫太郎や堕姫のように、そうはなれなかった人たちもいるんですよね。鬼滅において鬼たちはしばしばそういった側面を描いてきます。単なる勧善懲悪ではない、細やかな「もし」を描いてみせるのが、この作品のヤバい所です。

こうして考えると、遊廓編はタブー扱いされて炎上しましたが、その舞台設定の本質は別のところにあると理解できますよね。

まったく、安易にNG扱いしないでほしいものですね。

さて、妓夫太郎と堕姫は、鬼としては負けることになりますが──死して再会し、黄泉を二人で彷徨う姿は一つの救われる結末になっていました。

願わくば、来世では幸せになってほしいものですね。

以上、遊廓編におけるタブーの解説と、妓夫太郎と堕姫の考察でした。

動画版: