「チェンソーマン」についてちょっと深掘りしてみたいと思います。
「チェンソーマン」は、グロテスクな悪魔とアクション、美麗なキャラクターで、オリジナリティあふれる漫画作品として人気を博しています。
一見すると、これまでにないような漫画のようにも見えますが、実は極めてオーソドックスな題材を扱った物語なのです。
余計なものを削ぎ落とすと、この作品が本当に何を目指しているのか、どんな物語なのかがより深く理解できます。
今回は、主人公デンジの視点を踏まえて、「チェンソーマン」について深く掘り下げてみたいと思います。
チェンソーマンは何のお話なのか?
まずはじめに問いたいのは、チェンソーマンってどんな物語か、という話です。
チェンソーマンという物語には、異形の悪魔がでてきます。美男美女も出てきます。シリアスな話も笑える話もあります。つまり悪魔討伐のアクション&コメディホラーなのでしょうか?
それだけだとちょっと足りないですね。
本質は別のところにありそうです。
主人公はデンジですから、主題はデンジに絡んでそうです。
この物語におけるデンジの目的は冒頭ですぐに示されていますね。
劇中において、ポチタはデンジが夢を叶えるところを一緒に見たいから、デンジに命を与えていましたね。
そこでぼんやりと示されたデンジの願望は、美味しいものをたべて、女の子と楽しく触れ合いたい、という、男子としての最低限幸せな願望でした。
デンジはその願望を満たすには、どういう物を手にする必要があり、どんな結末になるか、よくわからないまま、デビルハンターとして歩み始める。その、歩みを追いかける物語がチェンソーマンなのです。
で、これがなにかっていうと、先に言ってしまうと、実はその最もコアの部分は「デビルハンター」ではなく「デンジの童貞喪失物語」なんですよね。別の言い方をすると「デンジが一人前の男を目指す物語」です。専門的な言葉を使うなら大人になるための通過儀礼、イニシエーションの物語」ということでもあります
通過儀礼の物語って?
「漢になることを目指す」「童貞喪失物語」「イニシエーションの物語」という類型は、童話にもみられる、わりと一般的なものです。
これらの物語でよくあるのは、主人公が富や伴侶を求めるなかで、大切なものに気づいて大人になるというストーリーです。
チェンソーマンにおいては、獲得対象が女の子と衣食住になっています。
で、実は最近の恋愛作品では、状況としてのハーレムや恋愛はあっても、何らかの異性を獲得することを第一に掲げた作品はあまり見かけません。
直近でもっともそれっぽいのは「かぐや様は告らせたい」でしょうか。同じ恋愛ものでも「高木さん」とか「僕の心のヤバイやつ」とかは、スタートから相思相愛のすれ違い作品なので、ちょっと違います。
「かぐや様は告らせたい」では、かぐや自身も白銀御行も、互いを獲得するために通過儀礼をたくさんこなしているので、実は立て付けとしてチェンソーマンに近いのです。
かぐや様とチェンソーマンの違いは、「あの子がほしい!」と主人公の考える舞台が「悪魔のいる世界とデビルハンターという活動」か「学校と生徒会という活動」か、という違いになっているだけだったりします。
古い作品でいえば名作「Bバージン」というのが、構成としてはチェンソーマンと似ていてわかりやすいです。これらは恋愛モノであっても、恋愛にスポットするだけでなく、劇中において大人になるために、いくつもの課題が主人公にふりかかってくる作品であることが特徴です。
そうして作品の類型でみていくと、チェンソーマンのデビルハンターというものは、実は主題の「デンジの通過儀礼や童貞喪失」に対して、背景的な扱いであることがよく分かります。
チェンソーマンは、非日常の中に見出す日常にこそ、物語上の主題の意図がよくにじみ出た作品なのです。
非日常のなかで日常を問いかける物語
チェンソーマンの特徴として、日常描写が非常にすぐれていることがあげられますよね。
あの、悪魔とのすさまじい戦いの反対側で、アキとデンジとパワーは共同生活を送っています。さらに、デンジやアキのパートには、バトル以外にも日常的に、男女や身内と絡む、シーンの描写が差し込まれます。アキは日常で一部の人間的な悪魔や仲間と心を通わせ、デンジはたくさんの異性とのデート描写が出てきます。
チェンソーマン作者、藤本タツキ先生は、しばしばマニアックな性癖でしられていますが、同作の日常パートには、作者が実生活において他者との関わりのなかで意識したであろう、日常の大事な瞬間がいっぱいつまっています。
ただ日常パートだけだと、少年誌向けではなく青年誌向けの青春作品になってしまうので、そこにアクション&クリーチャー好きが加わって、悪魔バトルを描いている、とうような話だと思うのです。
で、その日常と非日常は、交互に繰り返す形になっています。
流れとしてはこんな感じです。
1.デンジの日常→行動目的の発現(あれがしたい、これがほしい
2.行動に対しての事件/悪魔バトル→環境の変化
3.環境変化を受けたデンジの心理変化→デンジが変化
・・・以後、繰り返し。
こうやって、すこしづつ日常と非日常を繰り返すことで、通過儀礼によるデンジの変化を読者が目撃するような構成になっているのです。ま、当たり前といえば当たり前なんですけど・・・
物語というのは多かれ少なかれ、アクションに対するリアクションの変化を追いかけますが──ここでポイントとなるのはデンジの性格です。
同じ通過儀礼型であっても、他の作品だと、主人公は殺しとバトルに思い悩むことになって、日常が楽しめなくなってどんどん重くなったりしがちなんですけど、デンジや公安退魔特異課のネジのとんだ人たちは違うんですよ。すさまじい殺し合いをしたあとで、ケロッとしてちゃんと日常にもどってくるんです。
これによって同作は、めずらしいことに、物語の最後の瞬間まで、「ありえない非日常」と「他愛もない日常」をずっと対比して描き続けることができるようになっているんです。
これはどんな効果があるのかというと──デンジが抱いている「一人前になる」というテーマが、読者に近い等身大の範囲からブレることがないので、読者はずっとデンジに共感しつづけることができるようになっているのです。
他の作品だとバトルのインフレ化に伴って、日常からはなれた化け物になっちゃって共感できなくなってしまうんですよね。
しかしデンジは、アホのままずっと等身大に悩み続けているんです。
そして最後の最後まで、自らに問うんです。
結局「大人になる」「一人前の男になる」ってどういうこと?と。
チェンソーマンは結末もすごい
さて、チェンソーマンは非日常と日常を繰り返す、デンジの通過儀礼を追いかける物語だといいましたが、素晴らしいのは、その結末への綺麗な流れです。
ここからはちょっとネタバレになりますので、原作未読でネタバレがダメな方はご遠慮ください。
チェンソーマンという物語は、デンジの通過儀礼=イニシエーション物語だといいましたね。それは、大人に成長することと、欲しい物の獲得をめざすものです。
デンジは、デビルハンターをしつつ、いろいろ一喜一憂しつつも、劇中最終盤に、念願かなってマキマに支配されて犬になることができました。
そこでは、女の子との触れ合いと、温かい部屋と、おいしい食事がまっています。なんなら、童貞喪失まであるかもしれません。まさにそれは彼が物語当初に求めたものでした。
しかしデンジはその結末に違和感を抱くことになります。
自分がほしかったものは本当にこれなのか?と。
デンジは、いままで支配されるか抗うかという、上下の関係でしか世界を見ていませんでした。
世界がそうであるならば、どうせ支配されるなら優しい女の子がいい、という考えを持っていました。
しかし、アキやパワーといっしょに共同生活を行うことで、だれが上下でもない、対等の生活を楽しむことが出来ました。デンジはその過程において、当初とは異なる願望をいだき始めているんですよね。
それは、ファミリーへの願望です。
同作では一人前の男になるというのは、女の子に飼われて食事や暖かい部屋を持つことではなくて、──対等の温かいファミリーを持つことだ、という終わり方をしているんですよね。
物語最終盤、デンジはパワーもアキも失い、さらにはマキマとの関係も、自分が求めているもとと違うとして退けます。一見すべてを失ったかのようにみせかけるんですが──
デンジはそこで、転生したマキマを異性ではなく家族として迎え入れ、養うことになるんですよね。
これがチェンソーマンの、デンジの成長物語の果てに導き出した結末になっているんです。
そこにはこの物語においてデンジが求めた「一人前の男」の答えが書いてあるんですよね。
一人前になるというのはどういうことか?
それは、自ら決断し、生活し、誰かを守り養うということになっているんですよね。童貞喪失はファミリーを得るためのオマケであり、本当に大事なのはそっちですよ、と。
そういう観点を意識して改めて同作をはじめからみていくと、この作品のみかたがガラッとかわります。アキやパワーの願望も、デンジの願望もその全てが等身大の物語になるようにつくられていて、だからこそ特別な作品になったのだと思うのです。
以上、チェンソーマンという作品のちょっと深堀り解説でした。