なぜ呪術廻戦という作品は、クズばかり目立つ作品になっているのでしょうか?
今回は、昨今の呪術廻戦のあまりにも多いクズたちが気になったので、同作品におけるクズの意義について、解説(暴論?)をしてみたいと思います。
呪術廻戦のクズまとめ
呪術廻戦のクズというと、キャラの連想に困ることはありませんよね。
例えば、呪霊側で言うと、物語前半から虎杖悠仁の敵として、彼の前に立ち塞がり続けた真人は、優男ながらも代表的なクズキャラでした。彼は、その振る舞いで順平やナナミン、釘崎他の様々なキャラを貶めて、虎杖を絶望に追いやっていました。
というか、そもそもの虎杖悠仁の中に住まう両面宿儺も傍若無人なクズキャラですね。さらに呪詛師となった、夏油、重面春太、組屋鞣造などは、ずいぶんと悪いキャラクターでした。
(※クズキャラ事例は下記表のとおり:異論認めます)
一方で、同作品においては、呪術師側にもクズはいます。
原作者が言明している通り、五条悟は呪術師としてのクズの代表です。その言動は控えめではありますが、過去においては、夏油と並んで問題児キャラでした。その他にも、劇中最強のフィジカルキャラ、パパ黒こと禪院甚爾や、そのパパ黒が忌み嫌う、禪院家旧当主の息子禪院直哉などは、気持ちいいくらいのクズっぷりを発揮していました。
このように呪術廻戦はクズや癖の強いキャラが沢山います。
ちなみに、クズという定義の範囲をクセキャラに広げると、さらに多くの範囲のキャラクターが入ってきます。
冥冥は、守銭奴クズですし、東堂葵は筋肉ドルオタクズ、悲しいかな禪院真依はシスコンクズで、九十九由基は腹黒美人クズ、楽巌寺学長は老害クズでした。そもそも、正ヒロイン釘崎の言動だってソフトながらも、クズめいているのが呪術廻戦です。
細かな定義は省きますが、ほぼ全てのキャラがクズか、それに類するクセの強いキャラクターになっているのが呪術廻戦ですよね。
というか、本当に善であると言い切れるのは、2〜3人くらいしかいませんよね。
なぜクズが揃っているのか?
さてなぜ、ここまで呪術廻戦はクズなキャラクターが揃っているのでしょうか?
作者的には、その方が面白いから、と言うのはあるでしょう。確かに登場するキャラクターたちは、個性的で、作品としての魅力を後押ししています。
基本的に、物語と言うのは「登場人物が困れば困るほど面白くなる」という性質を持っています。そしてクズキャラというのは、互いに足を引っ張りあって、困った状況を生み出すことで、物語を面白くしているのです。
しかし、呪術廻戦における、そのクズたちの暴れっぷりと言うのは、物語構造の必然性や作者の趣味以上の意味があります。それは、時代の要求によって成されたものであり、人気の理由にもつながっています。
古い作品を思い返してみましょう。
例えばドラえもん、或いはサザエさんという昔ながらの作品を想像してみてください。ドラえもんやサザエさんには、悪役も出てきますが、それはどこか抜けていて、庶民的なキャラクターだったと思います。見ていて、ドン引きするようなクズはほぼ登場しませんよね。
或いはスーパーマンやスパイダーマンはどうでしょうか? 古い欧米の作品のキャラクターは勧善懲悪であり、非常に善と悪がわかりやす句作られいあす。それらは、古い時代におけ価値観を反映したものでした。世界には正義と悪があって、善良な庶民はその間で揺れている、と言う構図でした。
しかし、現代はどういった世界でしょうか?
現代というのは、古い価値観では生きづらい時代になっていますよね。冷戦が集結し、まず善悪と言うのは、立場が変われば、簡単にひっくり返るものだと判明しました。加えて、善良な庶民であることは、騙されていることとイコールであることが、しばしば暴かれる時代になっています。
つまり、現代というのは、善良さを隠蔽して、狡猾に気を抜かずに、常に自分自身をガードしなければ、生きてゆくのが大変な時代になっています。
そして、それは呪術廻戦にもつながっています。
呪術廻戦はある側面で現代を反映している
ようするに、呪術廻戦は現代を反映しているのです。そして、登場するキャラクターは、狡猾でなければならない現代人というのを最大限に誇張したキャラクターになっているのです。
彼らは現代の私たちの中にある要素を誇張した存在なのです。だからこそ、私たちは、そこにある種のリアリティを感じて、時に共感をするのです。これは、多くのファンが心惹かれるその根底に隠れているものの一つになっています。
もしかしたら、原作者の芥見下々先生には、世界が呪術廻戦のような「呪いあい、騙しあい、イキり合う世界」にみえているのかもしれません。世の中というのは、みんなイキリあって、マウンティング合戦して、ポジショントークして気持ちよくなっている人たちばっかりじゃねーか、と。
それは、必ずしも間違っていないですよね。
ただ、作中や世のクズ達というのは、別に常にイキっている訳ではありません。心の奥底には優しさや善意を抱えていることもあります。ですが、呪術廻戦では、そういう人の良さをちょっとでも表に出した瞬間に、死んでしまう世界でもあります。この構造も、私たちの生活のリアルを誇張したものに感じられます。
つまり、私たちの現代社会&呪術廻戦の世界は、庶民の善意が貶められ、力を持っているクズが、互いを削りあっている世界だってことです。呪詛を吐いて、呪いあってばかりの人々が住まう世界なんです。
うん、なんて救いのない世界なのでしょう。
呪術廻戦はクズばかりで救いのない物語なのか?
では、呪術廻戦は救いのない物語なのでしょうか?
善意や弱みを見せると、すぐに死んでしまうような、悲しい世界を表したなのでしょうか?
いいえ、そんなことはありませんよね。呪術廻戦の主役は誰でしょうか?
虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇ですね。
伏黒恵と釘崎野薔薇は、作中の善意を抱え、それを一生懸命に体現しようとする存在です。
さらに主人公の虎杖悠仁は、作中のどうしようも無いクズキャラクターばかりの中にあって、じいちゃんの遺言にしたがって「人を助ける」ために、正しく振る舞おうとしている存在です。
彼らは世界の悪意と常に戦っています。いっとき、防御のために柔らかな善意を隠すことはありますが、へこたれることなく、命を燃やして事を為そうとしているのです。
それは、現代の私たちが求めても中々得られないものです。彼らは、クズの中にあって時にクズに同調しながらも、奮起して、必ず正しき方向へと向かっているんですよね。
つまりは、呪術廻戦という物語はクズたちが跋扈する世知辛い世界にあって、希望となる「正しい」を求めて、戦っている人たちの物語なんですよね。
クズばかりのリアルな世界にあって、そういうささやかな善意を尊重する構造を持った物語だからこそ、人々は呪術廻戦に惹かれるのだと思うのです。