スタッフリストの中に原作:スナックマリーって何なんすかね?(挨拶)
なんでスナックマリーなのか、いずれ明かされるであろうことから、それはおいときましょう。
さて、体操ザムライです。
同作品がここへきて、ぐっとそのクオリティの高さを見せつけてきていて、とっても感激している今日このごろです。
相変わらず、「体操ザムライ+つまらない」というサジェストがムカついてしょうが無い私ですが、ここで改めて何がそんなに魅力的であるのか解説してみたいと思います。
丁寧につくられた「AがBならやっぱりCだよね?」という構成ザムライ
アニメ放送前は、ユーリオンアイスやボールルームへようこそ的なアニメを期待していた視聴者も多かったと思います。しかし蓋を開けてみると、それは荒垣城太郎の体操リベンジ物語として始まりました。
昨今流行った、おしゃれスポ根モノを期待していた視聴者は、城太郎というやや天然入っていて共感しにくい主人公と、よくわからない忍者と、毒気のない等身大のレイチェルが繰り出す、シリアスなのかコメディなのか、微妙に判断がしずらい展開に、少なからず困惑させられてしまいました。
しかし、3話を過ぎた頃から、この作品荒垣家を中心とした周辺人物の、伸びやかな挑戦と成長の物語なのだと理解が進み「楽しみどころ」を数多く見つけるに至っていると思います。
スロースターターではありましたが、それは丁寧さの裏返しでもあります。
他のところでも書きましたが、ドラマというのは「原因と結果」で構成されています。さらにいうと「Aという事件にBがあったなら、Cにたどり着いたら嬉しいよね&悲しいよね?」という、感情的な合意がまず視聴者との間にあって、それを丁寧に積み上げてクリアすることで、物語というのは感動を生み出してくれいます。
そして、僕はいまのところ、この体操ザムライという作品は、見事なまでにそれを一つ一つクリアしてきたと思っています。
何が素晴らしいって、そこには「押し付けがましい感動」が無いんです。絶妙なバランス感覚で、笑いや可笑しみのある日常のその上に、ポンと「こうだよね?」を載せてきてくれる。
そして僕は思うのです。「あ、たぶんこの作品は、視聴者を裏切ること無く、気持ちよい気分にさせてくれるな?」と。
期待が回を増すごとに膨らんでいきます。
つぶさな変化を追いかけるザムライ
体操ザムライは非常に丁寧につくられています。凄いと思うのは、まず各キャラクターが出す感情の描写が丁寧であること。といってもまあ、ここまでは、普通なのですが、細かく言うと──体操ザムライという作品は、その感情を生み出すためのプロセスがとっても自然に組み上げられているということを、僕は指摘したい。
喜怒哀楽は、ぶっちゃけ絵なので、そのシーンでそういう顔をすれば済む話ですよね。ですがそこに共感を引き出すにはプロセスが必要なんです。
なぜレイチェルが照れているのか、なぜ城太郎が苦しんでいるのか、なぜビックバードは昏倒したのか? あの時何に気づいたのか? なんで笑った?なんで憂いた? その感情の一つ一つに至るフリが本当に丁寧に描かれている。
レイチェルの笑顔や気丈な振る舞いの裏にはお母さんの代わりをめざしたものでした。城太郎の葛藤は、心身と外部とのディスコミュニケーションに由来していました。そしてレオはおそらくロイヤルの重責に押しつぶされてバレエが楽しめなくなって逃げ出していたんだけど、荒垣家やその周辺を見て、何かをつかむきっかけを得る。それそれのキャラクターには「今そうであることの原因」が必ずあって「解決」もちゃんと示される。その変化を破綻なくつぶさに、感情とセットで描いてみせている。
このシナリオ書いた人は、本当に物語というものをよく分かっていると思う。ドラマというのは、ただ設定がAからCへ向かうのではなくて、感情の動きとセットなんですよね。その表情、その行動、その根拠はなんであるのか? 体操ザムライは、本当にそのあたりを丁寧に描いている。
だから、共感をしやすいし、他愛もないエピソードに感動させられる。これは昨今の、設定ばかり先行した作品や、感情プロセスを描かず顔芸ばかり見せる作品の中では、とっても評価に値する点であると思う。※実写ドラマですら雑な時代ですし。
すげえよ体操ザムライ。
さて僕は、ココに来て、改めて気になっている点があります。
この、体操ザムライって、どんなメッセージを投げかけているんですかね?
勝手にメッセージ推察するザムライ
劇中を見ていて気付くのは、まず荒垣城太郎が天然ということ。そして、レイチェルもその幼さ故に、未成熟な思考でもって父を応援していること。レオは優しいが天才肌で掴みどころがないこと。そんな主要人物を動かしつつ作品が行っているのは──リベンジでありチャレンジですよね。
リベンジ──もう取り戻せるわけ無いじゃん? というようなレベルの一度失われたものを手にしようとしている。
チャレンジ──そんな事出来るわけないじゃない? という評価があるなかで、挑戦をしている。
城太郎は「まわりはああいっているけど、俺まだ行けると思うんだけどなあ?」というように悩みつつ挑戦をしている。レイチェルも「まわりはあんな事をいっているけど、お父さんはすごいんだから(でも自分はどうだろう)」と、悩みつつ挑戦する。
ドラマ的には、それらの願望に対して、登場人物を不安にさせる、嫉妬・妬み・やっかみが数多く襲いかかっています。
さて、日本人というは(主語でけえ)、とかく好きなことに没頭する人間、何かに挑戦する人間を馬鹿にするきらいがありますよね。君にお前にそんな事が──出来るわけないダメだダサい寒い等々。バラエティ番組とか見ていると、東大バカにしたりとか、至らないアウトサイダー・アートに邁進する人物を揶揄したりとか、そういうものは本当に気分が悪いし世の悪癖だと思うんです(単なる揶揄では無い部分もあるのが複雑なんですが)。最近はすこし緩和されましたが、今の時代もそういうものはずっと尾を引いている。
そして、荒垣城太郎やレイチェル、そしてレオナルドというのは、そういう好きなものに迷いつつもチャレンジ&リベンジを試みている。
彼らは世代別の人物設定されていますよね。城太郎は壮年であり、レオは青年、レイチェルは児童・少女や少年の代表。彼らは作品が投げかけるメッセージの世代別の代表だと思うんですよね。
ここまで噛み砕くとメッセージはシンプルに理解できます。ターゲットとなる世代というのは、世をまわしている現役世代とその候補たちですよね。そして僕らが何かにチャレンジしたいリベンジしたいと考えているのなら、それを応援したい。やるべきだと後押ししたい。そういう思いが作品から見て取れる。僕はそう受け取った。
劇中キャラクターは、荒垣家に集うことで「何かにチャレンジすることは悪いことではないし、それぞれの立場で、それぞれのペースでやればいい」と承認を得た。さらにいうと「結果や価値は各々ものであって、社会的評価から切り離したっていいんだ」と。そして恐らく劇中でキャラクターたちは「やるべきコト」を達成するんです。視聴者はそれを目撃することになる。
これらは、現代において何かをしたいと思っている人たちにとって、とても励みになるものだと思うんです。少なくとも、僕はちょっと励まされている。というか励まされつつある。例えば8話のレイチェルが、自分の好きな事に気づいて「追いかける人間から、行う人間へとシフトした」エピソードに、ドキッとした。「彼女がキティチャンに触発されて手を伸ばした瞬間」は胸に来るものがあった。
そういうシーンを積み重ねられると、ちょっと「頑張ろうかな」って思っちゃうよね。
もちろん、荒垣城太郎やその周辺の面々は才能があり、なんのかんのと恵まれていますし、いうてもフィクションではありますが──それを差し引いても、体操ザムライが、その物語のそこかしこで発信するメッセージは、たぶん届く人にはけっこう強い意味をもって届くと思うのです。
そこがこの作品の醍醐味の一つだと僕は思っています。
そんな感じで、僕らは劇中キャラクターたちの、健やかなる、伸びやかなるチャレンジとリベンジを引き続き楽しんでいったらいいんじゃないかな、なんて思います。