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『異端の鳥』感想〜劇中少年の受難は作り手の「無自覚な欲望の具現」だよね。

洋画・邦画

評価3.5〜4あたりをうろついている映画「異端の鳥」を見ました。個人的な総評としては今でてる映画レビューからだいたい−1点くらいですかね。

この映画の監督はチェコの監督。作品は「ペインテッドバード」という小説をベースにした原作モノです。

内容は各種WEBの情報を見てもらえばわかるとおり、第二次大戦下の東欧を中心にユダヤ人迫害や反戦をテーマに扱ったもので、一般の方からしたらかなり重い映画になると思います。ハーヴェイ・カイテルやバリー・ペッパー(プライベート・ライアンでスナイパーやってた人がまたスナイパーやってる)等、ベテラン陣が多数出演し、圧倒的な映像美と確かな演技でもって、静かに見ていられる良い映画でした。長いけど。

細かな評価は、レビューサイトを見ていただくとして、僕の見た感想は、この映画を「技法的素晴らしさ以外のところでありがたがる人がいるんだろうな〜」という話と「欧米ってこういう重〜いノリの映画、本当に好きだよね〜」という感想。

欧米人、というと主語がちょっと大きいですね。細かくいうとアブラハムの宗教に親しんだ人々。かつヨーロッパに住んでらっしゃる方々。イスラム教の方は含まない方向で話しています。

私は、かの人々は「人間の暗い営みを描くことは、寓話的でありがたい教訓をもたらす」という価値観を持っていると思っています。そしてこの映画は、そういう宗教的なありがたい教訓をゴリ推したいんだという匂いがぷんぷんします。「受難」をありがたがるという考えは、やっぱりかの宗教下の人々の価値感だと思うんですよね。もっというと、そういうものは、実はある文化の下に住まう人たちの欲望──サディズム&マゾヒズムの裏返しなんじゃないかと思っています。

キリスト様を鞭打って老女を心臓発作に追い込んだメル・ギブソンとか見ていて本当に思うんですが、しばしば向こうのフィルムクリエイターは自文化における善悪のあり方を逆手に取って、視聴者に衝撃を与えるついでに自らの欲望の具現をしますよね。マーティン・スコセッシは淫婦と純粋さの同居をタクシードライバーの頃からやっています。タルコフスキーだってルキノ・ビスコンティだって、美と退廃をフィルム内に具現しています。示唆に富んだ寓話的であれば、わりと何でも許されることから、フィルムメーカーは罪になるギリギリまで「人の欲望を刺激し、人が観たいと思うもの」をフィルムに焼き付けるんです。オチが倫理や社会正義をクリアしていれば、その過程はグロテスクでも許されるという考えの下に、欲にまみれた作品を創っています。そこに品位の差はありますが、完全にフリーダムでヒャッハーな世界が広がっています。

しかし、それはクリエイターの中では結構当たり前の話だと思うんですよね。

映画監督というのは「撮りたい」や「作りたい」という欲望がまず先にあって、それをごまかすために哲学や思想や構造を作るのだと思っています。ものづくりにおいては、社会的な義務感や、哲学や思想や構造が先ではない。哲学や思想や構造が先だと、その人は絶対に映画監督にならないと思っています。そういう人は学者や宗教観になっていると思います。

そして監督というのは、ただただ自身の撮りたいものを撮るだけなんです。あらゆる映像作品のテーマや教訓はオマケであり、映画を撮らせてもらうためにそれっぽい示唆に飛んだ構成を作り、テーマを選び結論をつけてみせているだけなんです。それが上手な人が、仕事として映画監督をやることができるというだけなのです。そして、クリエイターの本質には気づかず、ただただ生み出された寓話をありがたがって見ているのが批評家であり視聴者、という構造だと思っています。

まあ、以上のような言い方をしてしまうと身も蓋もないですが──ここにはもう一つポイントがあります。

重要なのは客観性です。「自身が欲望に基づいてフィルムメイキングをしている」という自覚があるかどうかです。

メル・ギブソンは天然ですよね。あれは自覚してないでしょ。スコセッシやタルコフスキーは自覚してコントロールしている。さらにいうとそれを自身の作品づくりのテーマにしていると思います。ルキノ・ビスコンティは、自分だけが自覚していた時代に、逆手にとった作品をやった人ですね。そしてキューブリックは単なるサイコパスかな(笑)。

ごめんなさい、言い過ぎました。

何がいいたいのかというと、この異端の鳥を創った映画監督は自身の欲望や宗教観に対して、あんまり客観的ではない気がするんですよね。画面内で繰り広げられる「受難」は、ただただストレートで素朴です。全編に繰り広げられる「受難」が、押し付けがましくてうるさい。「こういうのが有り難いんですよね?」「あなたがたこういうのが好きでしょう?」とでもいうような。

正直な所、この物語のテーマや結論を描くためにには、この映画内にある「受難」のいくつかの描写はちぐはぐで不必要なものもあったと思っています。では、なぜそこまで描いてしまったのか? メル・ギブソンの鞭打たれたキリストとおんなじで完全に監督の趣味ですよね。この映画のクリエイターは無自覚に自分の趣味を体現しちゃっているんです。これがタランティーノであれば、自覚的です。彼はエンタメとして暴力描写をやってのける。コッポラもスコセッシもデビット・フィンチャーもそうです。彼らは欲望をフルコントロールして映画を創っている。たとえそれがビジネスのためであったとしても。

対してこの映画監督は自身の「撮りたい」という欲望に負けて、監督個人とその周辺から離れて「万人に向けた、トータルのクオリティ」を追求することを怠ったと感じています。或いはそのやり方に到達できなかった。気づかなかった。映画的に拙い作りや本質の追求を「受難」や「苦しみ」につながる映像を逆手に取って描くことで、教訓が「過剰に」あるようにみせ、誤魔化してしまった。

原作は未読ですが「これが原作に忠実に映画化した結果なのだ」というのだら──キューブリックなんて映画的面白いを実現するために、原作を余裕でぶち壊している。

そういう部分で、ちょっと残念でした。もっと質は高められたんじゃないかな、と。

あと、最後にもう2つ。この人、絶対ゴッドファーザー好きだよね。そういうのを示唆するシーンが少し有る。さらにこの映画を見ているとヨーロッパの人が北野映画が好きな理由もよく分かるなと感じました。

北野映画は、北野武の退廃美であり、笑いと悲しみが高純度に昇華した作品です。それは、人間共通の宗教的寓話性に満ちているんだな、と。武は自身の欲望に自覚的な芸人ですよね。だから彼なりに映画をフルコントロールし、そして称賛を得たのだろうな、なんてことを思いました。

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