進撃の巨人は、徹底的な◯◯の物語だと気づく

進撃の巨人
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進撃の巨人が佳境を迎えています。

先ごろ、最終話を書き上げたとの報告が作者の諫山創センセーからありましたが、もう終わってしまうのかー、という悲しさが切ないですね。

さて、そんな進撃ですが、TV版やコミックをずっと見てきて、一つ気になっていることがあります。

それは同作品の扱うテーマです。

進撃の巨人の扱うテーマって何じゃろ?

進撃の巨人についてテーマって何でしょう?

というか、テーマについて先に解説しましょう。

テーマというのは、どんな作品にも自然と発生してしまう、作品の「意味」みたいなものです。物語であろうが、車であろうが、ケーキであろうが、なにか作れば、そこには必ず意図があって、意味が生じます。それらの目立つ部分を一括にすると、テーマなるものが浮かび上がってくるのです。それは時にコンセプトとよばれたり、コンテクストとよばれたりします(※厳密には違いますが)。また、それは大小ありますが、別に一つである必要はありません。

話を戻します。

進撃の巨人のテーマは「壁を破壊して外へ向かう」とか「若い世代のチャレンジ」とか、分かりやすい部分では、本当に色々あると思うんですよね。

表題としての「残酷で美しい世界」というのもテーマです。

その他だと、例えば「まだ見ぬ世界を見たいと願って、閉塞的な土地から壁の外へ向う」というのは、進撃の巨人の前半において、大きく、わかりやすいテーマでした。

次に、マーレ編に入ったあたりのテーマは何でしょうか?

マーレ編で特徴的な描写といえば、エレンとライナーは立場は違っていても、やってることは同じという結論になりました。

また、ガビは若かりし頃のエレンと似たような苦悩を抱えています。テーマ的には「世界は多様だけど、人の営みはどこもかわらない」といったところでしょうか?

マーレ編が描かれたことで、初期の進撃とはまた違ったテーマが現れてきていましたよね。

さて、ココで思うのは、それらが進撃の全てなのかということです。私は「進撃の巨人」が何であるか、まだちょっと一言では、テーマとしては言い足りないと常々思っていました。

それが、マーレ編のジークとエレンパパとのやり取りを見ていて、何となく分かったので、以下に挙げます。

進撃の巨人は、徹底したすれ違いの物語になっている

進撃の巨人を見ていて気づくのは、登場する人物たちの意思や意見、願望が、もう徹底的に噛み合っていないことです。

各キャラクターの描写を見ていると、大体の場面で、各々が好き勝手なことを言っていますよね。

もちろん劇中では兵団としての統一感や、国家としての意思の統一というのはあります。

ですが一方で、個々人の意思、希望、趣味趣向については、それぞれ完全に好き勝手なものとなっています。

例えばライナーは、ヒストリアへの想いを募らせますがそれは一方的なものです。また、意味不明な言動はベルトルトらを困惑させています。サシャは食事に執着し、コニーはわりと話を聞きません。ハンジは巨人への好奇心を隠しきれず、兵長はホコリを徹底的に嫌います。ミカサはエレンをずっと見ていますが、それは永遠の一方通行とも思えるものでした。

こう見ていくと進撃の巨人という作品は、むしろ意見が噛み合う瞬間というのは、ほとんど存在しません。利害関係の一致はありますが、互いの願望が本当に合致した場面というのは、おそらく数えるほどしか無いんじゃないでしょうか。

なかでも際立つのは、親子や肉親関係です。

ジークは、自身の親と徹底的に噛み合っていません。むしろ、両親を売りさえしました。一方のエレンも真相を知るに連れ、親への嫌悪感を顕にします。また、ヒストリアも親と噛み合っていません。何かを親から与えられた子は、徹底的に親の意見を否定しています。

もちろんうまく行っている肉親関係というものは存在します。たとえばサシャは良い方でしょう。ですが、両親によって兵団へと追いやられており、何がしかのディスコミュニケーションが存在しています。

何故ここまで徹底的にディスコミュニケーションが描かれているのか?

進撃の巨人における、キャラクター間の意思の断絶というのは、とんでもない力強さとリアリティでもって描かれていますよね。

ですが、何故ここまでディスコミュニケーションが描かれているのでしょうか? 何故、肉親間の意思疎通が断絶されているのでしょうか?

一つは、お話を面白くするためでしょう。ですが、それを言ったら身も蓋もありません。

もう一つ思うのは、実は作者諫山創先生とご両親の間柄の体験から、描かれたものなのではないかということです。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、作者諫山創は漫画家になるにあたって、ご両親にあまり良い反応をもらっていませんでしたよね。情熱大陸では、なかなか酷い断絶が描かれていました。

つまり、ご両親のほうから、何がしかの将来への希望があったときに、諫山先生は、それをバッサリと否定して漫画家を選んでいる。

その体験が、人というのは基本的には好き勝手なことしか言わないし、理解しあえない、という表現に現れているんじゃないでしょうか?

ですから、劇中における各々の希望──たとえば、エレンの父親は自分なりにエルディア人の事を考えていて、ジークもまた別の考えがある、しかしエレンはさらに考えがあって、その二人には従わない、という選択にっているんだと思うのです。

つまり、進撃の巨人という物語は、あらゆる場面で徹底的に、壮大に、国や組織や人や家族の、意思疎通の断絶を描いてきた物語、コミュニケーションの断絶を描いた物語なんですよね。

そんな進撃の巨人は何処を目指すのか?

進撃の巨人は徹底的な意思疎通の断絶の物語である。これは、同作品内にいくつかあるテーマの一つに入ってきてもいいと思います。

ただ、ディスコミュニケーションのままで結末を迎えるのは、物語としてはあまりにも寂しいですよね。こういう作品である以上、そこには一つポジティブで建設的なものもあってほしいと思うのです。

進撃の巨人の興味深いところは、かつて袂を分かつことになった、ライナー一派と、ミカサやアルミンたち兵団グループが、再度共闘をしていますよね。そして、一緒になってエレンを止める戦いに突入している。

これは、ようするにディスコミュニケーションからの歩み寄りですよね。

同じ釜の飯を食った仲間たちだから、目的が定まり、方向性が同じになれば、一緒に戦える。心の全てが通じ合わなくても一緒に生きるし前に進むと。

おそらく、そこには諫山先生なりの回答があるんだと思うんです。これもまた、実体験から導き出されたテーマなのかもしれません。

個人的には、共闘が始まったあたりからの盛り上がりは、本当に素晴らしい展開だと思っています。

さて──

進撃の巨人は結末を迎えます。

果たしてその時に、諫山創先生は、ディスコミュニケーションの果てに、どんな答えを導き出すのでしょうか?

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