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鬼滅の刃が押し付ける正論の、正しすぎるが故のシンドさとその影響について

鬼滅の刃

今回はちょっと真面目な雑記。

私は鬼滅の刃というのは、素晴らしい作品だと思いますが、同時に何か新しい考え方を提示したものではなかったとも思っています。

で、それは場合によっては、ちょっと時代を後退させたんじゃないかと思っていて。今回は鬼滅の刃のヒットの裏にある、あの作品のシンドさや、ひょっとしたら与えてしまったかもしれない、マイナス要因みたいなものを解説してみたいと思います。

ヒットの理由のシンプルなおさらい

まずあの作品の、とくに映画版についてのヒットの理由のおさらいから。

ヒットの理由は、いろいろあるんですけど、私がここで注目しておきたいのは「親子で見れる作品である」ということ。

親子で見れる作品というのは、観客がダブルカウントされるんですよね。

なので、仮面ライダーシリーズや、東映のまんが祭りのもの、それからクレヨンしんちゃんといった作品というのは、大人と子供が見ることで観客動員数を伸ばした。ジブリもそうです。親子で見に行くから動員数が伸びるんです。

そして、鬼滅の刃というのは、何故親子で見ることができたのか? それもシンプルな話ですよね。

鬼滅の刃は「正しい」んですよね。それも全方位で、隙がないほど。

親が子供に見せて安心できる範囲の価値観を提示していた

鬼滅の刃というのは、反体制とか、時代に対する反逆とか、マイノリティの逆襲とか、くんずほぐれつのラブロマンスとか、血で血を洗う抗争とか、内蔵ドロ~ンっとなっちゃうようやサイコな描写に美を見出したカルト作品ではありません。

若干、怖いキャラクターと残虐なシーンは出てきますが、その根底にあるのは、家族愛であり仲間愛なんです。それはもう明快に見ての通りです。

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

そして、炭治郎は常に倫理的に正しく、品行方正に振る舞いました。登場するキャラクターたちも、一見尖っているようにみせかけておいて、極めて合理的で倫理的な振る舞いをするキャラクターが揃っていました。

さらに鬼たちというのは、かつて人であり、人の業を抱えたがゆえに、苦しみ悲しみを抱えた存在でした。鬼殺隊というのは、鬼を殺すが、同時に鬼を人に戻す仕事もしていたことになります。

それらが組み合わさって提示された、鬼滅の刃の一連の展開は、非常に倫理的に正しく、こじれたところがありません。親が子に対して、安心して見せることができる物語になっていました。

細かなところで言うと、例えば劇場版の煉獄杏寿郎のかっこよさの裏にある「親の願いに従った尊い子」というイメージは、親を大いに感動させた。我が子に対して、煉獄杏寿郎のような良い子になりなさい、という模範的イメージを持っていた。

このすさまじいまでに「正しい価値観」を提示したことが、多くの観客を受け入れることができた間口の広さをつくっていました。

しかし、ここで興味深いのが──というか、当たり前の話として、これに抵抗感を示す人たちもいました。

正しすぎることは、時としてシンドいんですよね。

鬼滅の刃という作品のシンドさ

順不同でいくつか書き出します。まずひとつ目のシンドさは、竈門炭治郎の長男気質です。

炭治郎の長男気質のシンドさ

彼はあらゆる場面において、真面目で正しく、粘り強く、伊之助と善逸と禰豆子をあやしてさとして、コントロールしつつ、鬼たちと戦い抜いてきました。物語を進めるためのひとつのキーというのは、この竈門炭治郎のまじめさがありますよね。

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

彼が、まじめでなかったなら、善逸はヘタレて立ち止まり逃げ出し、伊之助は無軌道に駆け出して、どこかへ行ってしまいます。また、禰豆子もひょっとしたら鬼になっていたかもしれませんね。しかし逆に考えると、ある種の正義や目的のために、伊之助と善逸の類まれなる個性を損なっていたかもしれない。

鬼滅の刃というのは炭治郎を家長とした場合の疑似家族の話にもなっていますよね。劇中で、禰豆子は愈史郎の頭をポンポンしていました。その他の仲間に対しても、ある種の身内めいた関係を築いている。禰豆子にとって炭治郎一行は家族だった。

ここで描かれているのは旧来の共同体における縛りでもある。すなわち家長に従ってみんなうまくやってくれ、と。しかし、現代においては、家族的な縛りというものは、時としてじゃまになるケースがある。人は炭治郎のように完璧ではないですからね。

それを知っている人が見たら、炭治郎一行というのは、ちょっとシンドい瞬間があった。

つづいてふたつ目の話。ちょっと繊細な話。鬼滅の刃に登場する女性キャラクターの扱いについて。

ステレオタイプなジェンダー描写

鬼滅の刃に登場する女性キャラクターの多くは、けっこう旧来の価値観に縛られて行動しているように見えました。時代背景が大正時代だから、というのはありますが、それにしても、目新しさのない女性像が多かった。

すなわち、禰豆子は家長たる炭治郎に従い、甘露寺蜜璃はお嫁さんに夢を抱く。煉獄杏寿郎はステレオタイプに母を想い、珠代様は時代物の敵討ちを思わせる振る舞いをみせる。カナヲは抑圧され黙して語らず、唯一のキャリアウーマンめいた胡蝶しのぶは(目的は果たせたにせよ)非業の死を遂げている。

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

その振る舞いのどれもが予測の範囲にあって、だからこそ、そこに収まらない人達にとってシンドい瞬間があった。

百歩譲って、大正時代と設定したからそういう描写なのだ、というのはあるかもしれません。あるいは、作者の吾峠呼世晴の価値観がそうなんだと言ってしまえばそうなんですけど(たぶん先生は確実に、保守的なところに美意識の軸足を於いたクリエイターだと思っています)。

さて、この二つの価値観──まあ平たく言うと「家父長制」ともいうべき日本古来よりあるバイアスは、ヒットの要因の一つとなったのは間違いない。これらの旧来の価値観を踏襲したことによる安心感が、動員に繋がった。

しかし一方で、私は、これらの表現方法というのは、時代に対していくつかの価値観を逆行させるような、呪いを与えたんじゃないかと思っています。

考えすぎかもしれない?じゃあ他の作品はどうでしょう。例として日本の代表的な監督の話を少し。

宮崎駿のバランス感覚の凄まじさ

私は、宮崎駿というのはジェンダーというところにおいてかなりバランス感覚がすぐれた作家だと思っています。

80年代の世相というのは、ともすれば男尊女卑にとらわれて、人をカテゴライズするきらいがあるんですが、一方でクリエイターというのは、結構バランス感覚に優れた人が多かった。

理由は明快で、作家になる様は人たちというのは、根底に反体制というの持っていて、保守的なものに対する反抗を儀礼として通過してきているんですよね。

例えば宮崎駿は、仕事先で組合の労働争議にかかわったり、マルキスト的な価値観に接したりしている。またその後に働いていた場所も、ジブリという女性クリエイターの繊細な作業によって成り立っていた組織だった事も影響しているでしょう。

だから、この宮崎駿というのは、そこそこフラットなジェンダー感を提示するに至っていた。というか、抑圧的な性指向を描いたたら、おそらく社内から文句が出たはずです(たとえば、紅の豚の冒頭、初期プロットは社内女性陣に評判がわるかった)

それはキャラクターにも見事に現れる。

ナウシカにおける、主人公のナウシカの強さ、クシャナの強さ。ああみえて気が強く、黒服を鈍器で殴るシータ。魔女として母と同じく、自立をめざすキキ。おそらく史実では許されなかったであろう女性設計士のフィオ。史実でいったら神道上の禁忌を犯して鉄を作っていることになるタタラ場の女性たち。クシャナのリバイバル版であるエボシ様。あるいは肉食系女子のポニョ。

あまりにも尊重しすぎていびつかもしれないのはご愛嬌。しかし、少なくとも、ジブリの作品というのは、常に男女を対等以上に描いてきていた。そして、私はこれが世に与えた倫理的な影響力というのは結構強いと思っている。

そこは男性監督なので、新しい価値観というところまではリーチしていなかったかもしれませんが、少なくともバランス感覚という点では、親子で見れて不快感がないというところで、本当に優れたものがあった。

そしてもう一ついうと、これは宮崎監督の家族的なものに対する価値観にも及んでいると思っている。

実は宮崎駿の作品というのは、家族的なものが第一である、という描かれ方ってあんまりされていないんですよね。

そこにあるのは、兄弟姉妹や親子であっても、常に自立と尊重なんですよね。長男とか次男とかそういう序列もひっくり返した人物配置をしばしば行っていた。

ナウシカは勝手に家をとびだし、アシタカは家を追い出される。ポルコは理想に破れた流浪の男子であり、ソフィは他の男と理想の関係を追い求めていた。さつきとメイは家族的な中にあって、両親の思惑を上回るファンタジーをトトロと共に志した。

年齢差はあるがすべては対等であり、そこに家族があったとしても、内へ内へ、家族へ家族へ、というような回帰はせずに、とにかく外へ向かっていた。外へ向かおうとするものを阻害するものを敵としていた。

このあたりも、価値観として組合運動的な、複数の別の家の人たちの集合体による営みというのがあったからかもしれません。またその背景に、自然の前では平等であるという思想があるからかもしれませんけどね。

つまり、ジブリ作品というのは、ああみえてジェンダー的にもコミュニティ的にも、かならずしも保守的なものではないんですよね。

鬼滅の刃は思想を後退させた?

そうして考えていくと、鬼滅の刃はヒットしてしまったんですけど、思想的には後退したように見えちゃうんですよね。

状況的には仕方ないかもしれないんですけどね。

ちょうど、世界は閉塞していた時期でしたし、友情とか家族とか男女とかいう考え方というのは、やっぱり時代が閉塞すると後退するのかな、などとも思っています。

私たちの国のような均一な社会というのは、どんずまると勝手にルールが生まれやすい。そして欧米諸国ほど多様化が進まないのは、あらゆる場面でどんずまりに陥った際に、処世術としてある種の談合を発生させるからだと思っています。それは家族的なものに対してもそうですし、ジェンダー的なものに対してもそうです。

談合というのは厄介で、そこに収まることを受け入れると、結構いろいろと都合が良くて便利だったり、心地よかったりするのです。しかし、何かあたらしい物を作ろうとするときに、それらは障害となることもある。

そして、鬼滅という作品は、世の保守的なものに対する談合を内包していた。あの正論は中毒性があってとっても心地が良い。

そこに溺れてしまうのは、一歩引いてよく考えてみると、けっこうな危険性を孕んでいると思うのです。この鬼滅の刃という大ヒット作が、閉塞した時代にどんな合意を生みだしたのか? あれだけのヒットをしてしまうと、ただの「正当な勧善懲悪の話」であるがゆえに、多様を志していた世界に対する影響力は凄いと思うんですよね。

©諫山創・講談社/「進撃の巨人」製作委員会

いちおう同時期には、たとえば呪術廻戦や進撃の巨人という、世を突破しようと試みる登場人物たちがいる作品もあるので、すべてが内に向かう、ということはなさそうではありますが──いずれにせよ、鬼滅的な正論というのは、特定世代にシミのような悪さをするかもしれない、なんて陰謀論めいたことを、ちょっと思うのです。

考えすぎかもしれないですけどねー。

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