鬼滅の刃〜堕姫と妓夫太郎が物語に於いて示しているもの

鬼滅の刃
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鬼滅の刃遊郭編解説。

前回の宇髄さんに続いて、今回は敵キャラである上弦の鬼の、妓夫太郎と堕姫。彼らについて雑感。

※ネタバレになるので、本編未読の人は注意。

堕姫(だき)と妓夫太郎(ぎゅうたろう)の雑プロフィール

血鬼術とかの細かい話は他のwikiにおまかせしますが、二人の鬼への簡単に説明。

堕姫と妓夫太郎は兄妹ですね。まず堕姫について。

堕姫は、遊郭編における炭治郎たちが探している鬼の一人ですね。

遊郭編の話は、花街に鬼がいるという噂があり、宇髄天元とその妻達がずっと内偵をしていました。そこで、宇髄さんの嫁の行方不明とともに不穏な動きのある遊郭がいくつかピックアップされ、そこに炭治郎らが送り込まれる、という流れになっていますが、その遊郭の一つで花魁をしているのが堕姫、さらにそこに隠れるように存在していたのが妓夫太郎、になります。

堕姫の本名は梅。これ、母親の死の原因から名付けられたってなっていますが、梅の付く病気って梅毒ですよね。梅毒、ヤバいですね。当時、花街というところは、性病で死ぬ遊女というのは非常に多かった。抗生物質がなかったからね。で、性病の代表は梅毒です。そこから、梅と。つまり、母親も遊女だった。また、梅も遊女ですね。

梅は、生前もその美しさやかわいさによって、遊女としても人気があり、妓夫太郎にとって自慢の妹でした。

一方で、妓夫太郎は、その人相の悪さ、素行の悪さから、花街の鼻つまみ者でした。仕事は花街における「取り立て屋」。借金取りですね。妓夫というのは下働きの者たちの役職名です。顔が醜いのは、こちらも、母親から感染した先天性の梅毒によるものと考えられる。

生前の妓夫太郎の生活は食うや食わずやのもので、周囲から蔑まれ、虫やネズミを食らって生きていた。しかし、妹が生まれたことで、彼に光が指す。

彼は自慢の妹「梅=堕姫」のために生きるようになるが──梅が遊女としての仕事中に、侍の目を簪で刺したことにより、生きたまま焼かれるという報復を受ける。妓夫太郎はその仕返しで、侍と遊郭の女将を殺し、虫の息の妹を連れて彷徨う。するとそこに現れた、上弦の、童磨によって、見いだされ、二人揃って鬼となった。

実力は妹とは比べ物にならないほどに高く、堕姫の七人に対し、妓夫太郎は十五人。生前から強かったですしね。

二人に与えられた物語における役割

これは、劇中でも言明されていますが、炭治郎と禰豆子が、もし鬼殺隊ではなくて鬼になっていたら、という話ですよね。

道を踏み外して鬼となっていたならどうなっていたか?

その対比として堕姫と妓夫太郎が設定されている。

だから、多くの人が、まあ堕姫も妓夫太郎もひでえやつだ、と思いつつも、どうも憎みきれない側面があったんじゃないかと思います。

炭治郎と禰豆子は、たまたま遊郭ではなく、山奥の炭焼き場の子として生まれた。だから、貧乏ながらもそれなりの生活を送っていた。

しかし、二人が遊郭に生まれていたら? 炭治郎や禰豆子もそれは凄まじい苦労を強いられたかもしれません。当時の遊郭というのは、その華やかさとは裏腹に、それほどまでに非人道的な労働環境でした。

そして、鬼滅の刃というのは鬼にも鬼殺隊にも光と影がある、というように多面的に物語を描く作品ですから、炭治郎と禰豆子のもう一つの可能性についても描いてみせたのでしょうね。

鬼に堕ちても、尚、変わらぬもの

堕姫と妓夫太郎、炭治郎と禰豆子は多くの共通点を持っています。

スタートが異なり、経緯が違えば、人は鬼にも鬼殺隊にも変わる。そういう話をよく鬼滅の刃はしています。しかし、締めくくりとしては、そこには変わらないものもある、という結論に結んでいます。

すなわち、妓夫太郎と堕姫との間には、兄妹の絆があって、これは鬼になった後も色濃くのこり消えなかった。

これは、鬼の側の鬼舞辻無惨をして「兄妹の絆や執着があったから負けたのだ」という話になるんですが、読者側から見ると、ちょっと違いますよね。

二人が鬼になったのは、やむにやまれず事情があってのことです。すさまじく酷い生まれと、生前の不幸があり、尚手を尽くして生きようとした結果、鬼を選んだ。

炭治郎が、富岡さんに食って掛かって、鬼殺隊にすべりこんだように、妓夫太郎は、焼け焦げた妹に対して手を尽くして、生きようとして鬼となった。

これは、それぞれの絆の強さ故に未来を切り開いた、ということでもあります。メッセージとしては、鬼であろうが人であろうが、兄妹は助け合うんだ、という話ですね。

だから、上弦の鬼としては負けることなりますが、それでも、妓夫太郎と堕姫にとっては、鬼となり、さらに死して尚、黄泉を二人で彷徨うことは大勝利なんですよね。

遊郭編はもう一つの炭治郎と禰豆子の「やむにやまれぬ選択」を肯定するエピソード

この鬼滅の刃の「やむにやまれぬ選択」を肯定する姿勢は、令和の時代に沿った、ほんとうに力強い提言だよなあ、と遊郭編を見ていて思うのです。

鬼滅の刃における、炭治郎と禰豆子の姿というのは、まったく正しいものなんですけど、そうでない人たち、そうはなれない人たちだって世の中にいるんですよね。

そして、妓夫太郎と堕姫というのは、悲しい終わり方をしましたが、一方で、炭治郎や禰豆子になれない人たちを、肯定をしてもいるんです。

「やむにやまれぬ選択」をしてああはなったけど、根底にあるのは炭治郎と禰豆子とおんなじだよね、と。それを描くことで、救われる人だっているのです。

そう云うところが、この作品の凄いところだよなぁ、と。

そして、作品の随所に込められた、そういうメッセージが伝わったからこそ、鬼滅の刃はヒットしたのだと思うんだよなあ(妓夫太郎風。