少し前のお話ですが、劇場版アニメーション閃光のハサウェイがスマッシュヒットしました。
今回は、その閃光のハサウェイの解説です。
内容としては、ニュータイプとはなんなのか、また富野由悠季さんは何故小説版原作を作ったのかということについて考察しつつ、劇場版閃光のハサウェイの意義について説明していきたいと思います。
閃光のハサウェイとはどんな話なのか?
はじめにいくつか整理したいと思います。
まず閃光のハサウェイというお話について──ストーリーの細かな説明はしませんが、これから話すことはネタバレになる部分もありますから、オチを知らない、或いは劇場版を楽しみたい方はスルーしたほうがよいかもしれません。
さて、閃光のハサウェイのお話は、かいつまんでみるとこんな感じです。
『ハサウェイという青年は、かつてシャアやアムロといったニュータイプの活躍にあこがれていました。 ハサウェイは彼らと同じような存在になろうと頑張ります。 ですが、結局彼らのようになることは出来ませんでした』
以上おわり。
身もふたもないですが、小説版をみるかぎり展開としてはこうなります。
閃光のハサウェイはシャアやアムロになろうとした青年の一瞬の輝きと挫折を描いた作品で、正直なところ、あんまりハッピーエンドになるような物語ではないんですよね。
何故そうなっているのでしょう?
何故富野監督はそんなものを作ったのでしょうか?
そのあたりについて順次解説していきます。
ですが──その前にもう一つ。
「ニュータイプ」という概念について、ちょっと先に整理したいと思います。
ニュータイプとニューエイジ
ニュータイプは、独特な描写と説得力のある考え方でもってガンダムという作品を特別なものにした概念でした。
はじめてそれを見た多くの人達が、その素晴らしい能力に、ちょっと憧れをいだいたりしたものでした。
では、ニュータイプとは具体的にはどういったものなのでしょうか?
wikiによると、時空を超えた非言語的コミュニケーション能力と、超人的な直感力と洞察力を身につけた新しい人類である、ということになっていますね。
ニュータイプ自体は、初代ガンダムの後半に追加され、さらにそれが劇場版で整理される形で確立した概念だと言われています。
詳しい話はいろいろなところに書いてあるのでそちらにおまかせするとして、そもそもニュータイプという概念がどこから出てきたのか?──という話をしたいと思います。
実はニュータイプは当時世界で流行っていた、あるカルチャー思想の影響を受けています。
そのカルチャーは「ニューエイジ」といいます。
ニューエイジというのは、60年代から90年代にかけて発展した、新時代の人類のあり方を考える思想でした。
その内容を大まかに説明すると──「新時代において、人は潜在能力が拡大し、宇宙や自然や生命とのつながりをより深める事ができるのではないか?」という考えに基づいた、文化であり思想であり、行動様式です。
このへんからもうすでにニュータイプっぽいですよね。
これは、当時まだ歴史と伝統のないアメリカにおいて、宗教と入れ替わる形で発達したものの考え方でした。
ニューエイジというのは、オカルトめいた話だけでなく、グローバル化や環境保護等も含み、扱う範囲は非常に幅広いものになります。
これがヒッピー等のサブカルチャーとまざりつつ、60年代から80年代にかけて、ごちゃっと日本にも輸入されました。
同時代の日本の若いクリエイターの中には、このニューエイジカルチャーの影響を受けた方がちらほらいるのです。
大友克洋なんかにもその影響が見て取れますが、当時の富野由悠季監督は、この精神や認知、意識の拡大といった考え方を、自覚的か、或いは無意識であるかはわかりませんが、ガンダムのニュータイプ的なものに応用したのです。
このニューエイジ/ニュータイプという考え方は、あの作品の宇宙や新時代、戦友たちとの絆、少年の成長、そして戦後日本からの脱却といった、ガンダムが内包していた複数のテーマと旨く噛み合って、同作品をを今まで見たことのないコンテンツへと進化させました。
結果、ガンダムは富野監督の代表作となりますが、一方で監督自身は──以後、ガンダムという作品に呪われたかのように関わり続けることになり、心を病んでしまいます。
その過渡期にある一つの作品が小説版ハサウェイなのですが、それは監督自身のニュータイプ的概念に対する苦しみによって生み出された作品でもありました。
人はまだニュータイプになれない
監督のニュータイプに関連した苦しみとは何でしょうか?
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、Vガンダムの製作時、富野由悠季監督はうつ状態だったといわれています。
また、テレビ版ゼータガンダムの製作時も、迷走して暗いラストになり、のちにそれを悔やんで新約の劇場版を作ったりしています。
監督は初代ガンダム以降のガンダムづくりにいつも苦しんでいました。
何に苦しんでいたのでしょうか?
それは──初代ガンダムを上回る「何か」をどうやって生み出すのか、ということについてです。
クリエイターは常に新しいものを生み出すことが求められます。しかし富野監督は、ガンダムシリーズを創り続けるハメになりました。
そして、クリエイターが同じシリーズ作品に新しい何かを込めるというのは大変な作業なのです。
これはニュータイプのような革新的な概念がある作品だとなおさらです。
監督は、そのニュータイプという思想に苦しみます。
初代のガンダムはニュータイプの可能性を示してみせましたが、では、ニュータイプの先にはどんな目覚ましい将来があるのかというと──監督は具体的なものを提示できなかったのです。
これについては、最近富野監督自身が、落合陽一さんとの対談で「ニュータイプになるハウツーを人類に示すことができなかった挫折感は大きい」とストレートに語っていますよね。
ニュータイプという思想が幻想だったことから、それを生み出した製作者の富野監督自身が苦しむことになったのですね。
興味深いことに、同時期におけるニューエイジカルチャーというのも、同じような袋小路にハマっていきます。
90年代にさしかかると、ヒッピー文化やスピリチュアルな内面探求は、人類の技術や経済面での進歩を否定したことによって、自らの発展を阻害し、シュリンクしてゆくことになるのです。
またしばらくするとインターネットが発達してきます。
それによって情報が均一化し嘘がバレはじめ、「人を内面から進化させる特別な何か」というのが幻想であることが露呈しはじめるのです。精神世界は消えさって、残ったものといえば、オカルト的な思想やそれに類する宗教法人だけになりました。
結局、ニューエイジが新時代の認知の可能性を提示できなかったこととおなじように、富野監督もニュータイプという考え方の具体的なアンサーを探してくることができなかったのです。
しかし残酷にも、世間は初代ガンダムのような斬新な作品を監督にもとめてきます。ニュータイプのさらに新しいカタチも求めてきます。これが、富野監督の苦しみにつながるのです。
前置きが長くなりましたが、これらの時代と監督の状況を踏まえて改めて、閃光のハサウェイを考えてみましょう。
ハサウェイ原作小説とはなんなのか?
ここではまず、監督が作ってきたガンダムシリーズの変遷と、その背景について簡単に解説したいと思います。
監督は初代ガンダムの後に、ゼータガンダムとダブルゼータガンダムを作りましたが、その二作品においてニュータイプの発展型を、どうもうまく提示できませんでした。そして、その次にνガンダムを作る訳ですが、ここで監督はアムロとシャアを殺してしまいます。
何故でしょうか?
察するに、監督は、ゼータやダブルゼータでニュータイプの新しい方向性を提示出来なかったことから、もうこれ以上ニュータイプをやるのは難しいと考え、強引にガンダムサーガ自体を終わらせようとしたのだと思うのです。
その結果ニュータイプの象徴であったシャアとアムロが消滅したのです。
監督は、ニュータイプを具体的にするのではなく、可能性のまま登場人物ごと濁して消すことにしたんですね。
しかし一方で監督は、どうもあのνガンダムにも納得が行っておらず、それを補足しようとして閃光のハサウェイの小説を作った、というようなことを言っています。
ここまで見ていくと、閃光のハサウェイという作品の立ち位置がぼんやり見えてきます。監督は、ガンダムという風呂敷をたたむ意味で、シャアとアムロを殺した。でもそれだけでは無責任ではないかと考えたようです。
具体的には、ニュータイプに手が届かないのなら、ニュータイプになれない子の話も必要なんじゃないか?
そういった考えを模索するために作られたのが、小説版のハサウェイという作品なのだと思うのです。
しかし、富野監督は、F91からVガンダムにかけて、ふたたびまたニュータイプを交えたガンダムシリーズをやるハメになり、それによって本格的に病むことになります。
以後しばらく──具体的にはブレンパワードまで悶々とすることになりました。
そして、過渡期に一瞬作られた閃光のハサウェイという小説は、消化不良なままお蔵入りになった、というのが真相なのではないかと思っています。
劇場版閃光のハサウェイの意味とは?
さて、時代は移り変わります。
小説出版の1989年から30年以上の時を経て、なんと閃光のハサウェイは劇場版アニメーション三部作として戻ってくることになりました。
それは何を意味するのでしょうか?
この閃光のハサウェイが、令和の今の時代において作品として復活するというのも、読み解いていくとちょっと面白いのです。
劇場版の閃光のハサウェイについて監督はいくつかコメントを寄せています。
例えば──
「製作関係各位から、本作のテーマは現代にこそ必要だと判断をされてのことだと聞いた」
と、コメントしています。
監督は、劇場版作成の経緯は、同作品のテーマが関連しているというような説明をしているのです。
さて、ここでいう閃光のハサウェイのテーマとは何でしょうか?具体的な言及はどこにもありませんが、ここまで見てきた皆さんはわかりますよね。閃光のハサウェイは「ニュータイプになれない子がどうなるか? 」という話です。ですから、テーマはそれに類するものになります。
雑に言えば、テーマは青年と人類それぞれの自己革新についての挫折です。
監督は、関連してさらにコメントしています。
「現実の世界は進歩などはしないで、後退しているかも知れない」と。
監督のこのコメントからは、リアルな人類がニュータイプになれなかったことに自覚的であることがわかります。
さらにコメントが続きます。
「ガンダムのファンの皆々様方が牽引してくださった道筋があったおかげで、今日、本作のテーマが現実にたいして突きつける意味があると知った」
ここでは、当時監督が「ニュータイプになれない子」を描いてみせた過渡期的な作品が、今日、改めて意味をもったような気がすると言っています。
結局ニュータイプもニューエイジも幻想だった訳ですが、進歩できなかった子がどうなるのかについて、何か突きつけるものがあると考えているのです。
それは興味深いことに、ちゃんと同劇場版の中に演出として浮き上がってきていました。
富野由悠季を知る新時代のクリエイター
実は閃光のハサウェイを作っている村瀬修功監督は、F91やVガンダム、そして新約ゼータガンダムで富野監督と一緒に仕事をしていたこともある人物です。
当時のスタッフにしてみれば、現実世界の富野由悠季こそニュータイプそのものです。日本のアニメ史を塗り替える出来事をやってのけた、エポックメイキングな人なのです。つまりこれは、富野由悠季になろうとしつつも、富野由悠季のようにはならなかったクリエイターの作品でもあるのです。
村瀬修功監督はニュータイプではないですし、ニューエイジ世代でもないので、閃光のハサウェイやニュータイプに対して、富野監督とは違う視点に立って、アプローチをしています。
個人的に秀逸だと思ったのは、ハサウェイの迷いの描写でしょうか。
そこには、ニュータイプ的なものに対する憧れと現実との葛藤が見て取れるようになっています。
劇中、ハサウェイは、マフティーとしての使命を帯びて活動をしています。
ある時モビルスーツの市街戦にまきこまれることになり、ギギと一緒に街を逃げ惑うシーンがあります。ここでハサウェイはギギを抱きしめ、彼女の肉体を感じつつ、モビルスーツ戦の美しさに目を奪われます。あのシーンは、ランバラル的にいえば「戦いの中にあって戦いを忘れた瞬間」だと思うんですけど、あれは一方でハサウェイにとっての生きることの実感を表しているシーンでもあるんですよね。
その裏側にある葛藤は「ギギがいて世界が美しければ、ニュータイプとか使命とかどうでもいいんじゃないか?」という誘惑です。
実際、ハサウェイはギギという感性豊かな女子に出会うことで、マフティーとしての迷いが生じるというのが、作品の中の、一つの大きなドラマギミックになっています。
村瀬監督はこのハサウェイの迷いとその理由をしっかりとピックアップしてみせることで、ニュータイプ以外の、青年としての別の可能性を表現しているようにも思えました。
コレが富野監督だとどう表現するかというと──アムロもシャアもシロッコもハマーンもカミーユもそうですが、あまりこういった欲望で心が揺らぐシーンをエモく描くことはありません。
富野監督のキャラというのは、誰も彼ももう本当に真っ直ぐに自分の欲しいを追い求めて突き進んでいて、衝突しあって最後には壊れてしまうのです。
しかし、その選択と行動は嘘でもあります。
その破滅へのチャレンジはニュータイプ以外には出来ないことです。
一方で、劇場版ハサウェイは、最終的に破滅が待っているにせよ、その前に、ニュータイプになろうとするのか?
それともただの青年になるか?
というのを、ちゃんと選ばせているようにも見えました。
その丁寧な描写は、かつてニュータイプ的なものに対して憧れを抱いていた、ハサウェイと、そして視聴者たちにとってのアンサーにもなり得ると思うのです。
そうして見ていくと、この劇場版閃光のハサウェイというのは主に3つのものを提示してくれそうです。
- ニュータイプにはなりきれないハサウェイの行く末がどうなるのか?
- 富野由悠季に憧れ、しかし富野監督のようにはならなかったクリエイターが何を作るのか?
- 憧れのニュータイプになれなかったかつての子供(視聴者)たちの行く末はどうなるのか?
そういうものを示唆してくれる触媒となるのが、今回の劇場版閃光のハサウェイという作品だと思うのです。こうみていくと、とても興味深いですね。
最後に監督よりの言葉
富野監督は、劇場版閃光のハサウェイ製作にあたって、こんな言葉も寄せています。
「製作する世代が若くなり、それを享受する観客がさらに若くなれば、それら次の若い世代が、いつか人の革新──ニュータイプへの道を拓いてくれるのではないかと信じている」
結局、かつての人々が憧れたニュータイプ/ニューエイジとは新世紀や新世代の意味を超えるものではありませんでした。ですが、いつの時代も新しい世代はやってきます。ならば、いつか来たる進化のために、未来を望むことが大事なんだというメッセージが尊いですね。
30年ごしの閃光のハサウェイを通して見た時に、果たしてニュータイプになりそこねた人々は何を選択すべきなのか?
その答えを、作品から各々探ってみるのもよいかもしれませんね。
以上、監督の苦悩、そしてニュータイプとの関係から見た、閃光のハサウェイの意義についてのお話でした。