ワンダーエッグプライオリティは、正しい物語なのか?そうでないのか?

ワンダーエッグ・プライオリティ
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ワンダーエッグプライオリティ引き続き見ています。

様々な評判が飛び交う同作品。最高品質のアニメーションと脚本技法なのに中身がちょっと古い作品だと、私は見ていますが、今の所まだその線が濃厚です。

それについて以下の通り引き続きの雑感。ああ雑感なのにぐちゃっと長くなっちゃった。

20年遅れで当時評判の脚本家がエヴァをやってる?

見ていて、やっぱりヒシヒシと感じるのは、野島伸司という脚本家は強烈に2000年代前後の脚本家なのだな、ということです。

前回前々回にも指摘したとおり、このワンダーエッグプライオリティのお話というのは令和の時代を汲んでいない。令和の今に全く役に立たない、2000年前後の閉塞のなかでこそ意味をもつ物語にしかみえない。

この手のモチーフは、やり尽くされていると思うんですよね。細田守や新海誠が既に捨てていて、岩井俊二といっしょに葬り去られたモチーフです。

この手のモチーフとは──すなわち「思春期の純粋性のみを是として生に立ち向かい苦しむという物語」です。有り体に言えば「世界系」なんですけど、ちょっとそれだと狭いので、私の中でのニュアンスはちがうんですけどね。そして、あの2000年前後の時代の作家にとって、こういうモチーフは扱いやすいんでしょうね。とっても人気ありましたよね。

けれど、前にも描きましたけどその物語の結末は死か破滅なんですよね。まあ、庵野秀明は拷問のように未だに作らされているんですけど、あれも答えにたどり着けない物語になるんだろうな、と。

で、5話を見ていて思うのは、もうキャラクターの苦悩の抱え方がね、やっぱりエヴァとおんなじですよね。厨ニの純粋性をモチーフにしたオチのつけられない古臭い価値観の物語に、全力でアニメーションと脚本の技法を詰め込んでいる作品になっている。

ああ、それは旧エヴァでやってたじゃんか、と。

旧作エヴァと違うのは、庵野秀明はお話よりもフィクションにおける映像表現のケレン味がマニアックなまでに大好きでそっちが優先だったことです。対してワンダーエッグプライオリティは、野島伸司が脚本としての技法を突き詰めているということ。その代わりに、映像表現は、別監督にアウトソースされている。

つまり今の所「脚本家が本気でエヴァ的中身のない物語で、人間関係を本気でドラマ化してみた」みたいになっている。まあ厳密には、野島伸司的なドロドロ群像劇は、そっちがエヴァより先で、時代的に庵野秀明がそれをエヴァの人間関係に導入した、というのが正しいかもしれませんけど。当時庵野秀明が「おまえら野島脚本とか、ああいうの好きなんでしょ」と。

そして──おそらく、大戸アイとその周辺は、それっぽく苦難に対処し問題解決をした後で、なんとなく良かったね、で日常に戻ると思われるようにしか見えない。

ワンダーエッグが何なのか?という説明はされるでしょうけど、それは単なる物語上のギミックであって、何か新しい価値観や視点を提示するものではない感じが引き続き漂っている。

フリからしてそう思える。

昨今の物語定石だと3話から5話に物語のフリがある

最近のアニメーションというのは3話から5話あたりに、物語の核心にふれるようなフリを入れますよね。

それが物語を方向づけるんです。そのフリが正しい価値観に基づいていて、かつ意外性もあって大きいほど、オチや提示する思想も質が高くなる。

例えばまどマギだと、マミさんが喰われ魔女とは何か?という話になる。あの花ならじんたんは学校へ行き世界を開き、ゆきあつが女装して、全員がめんまに因縁を持つことが明かされる。キルラキルなら、鬼龍院皐月様と神衣の説明がなされ、ヌーディストビーチの黄長瀬紬が物語に大きな謎を提示する。デカダンスではカブラギさんが2Dキャラの変な世界だと判明する。

それがそのままオチに対する問題提議となって、登場人物の大目的となるんですよね。3話から5話というのは、物語にとっての大切なフリになるんです。

そして、このワンダーエッグプライオリティという作品の3話から5話にも、そういう仕込みがなされています。

まず基本的な大枠として大戸アイの目的は「長瀬小糸」の死の理由をさがすというもの。

加えて、そこには長瀬小糸が沢木修一郎と付き合っていたかもしれない可能性があること、そして、どうも大戸アイのお母さんとと沢木修一郎の関係があやしいものがありそう、という匂わせがあった。ドラマのミステリのフリとしては、全く正しいものです。モチーフと展開が超野島伸司っぽいですけどね。

ですが──そのフリからたどり着くオチって、令和のこの時代に何か、目新しくて興味深いものを提示できるんかな?その疑問はついてまわった。

フリからたどり着くオチはもう殆どネタバレしている

庵野秀明の旧作エヴァは、アニメーション的フィクションにおいて、ミステリ構造の果てに「こうでした!」と提示するのが嫌で、分裂症気味にのたうち回ったあげく、あの「自己同一性の承認」という謎のオチを持ってきた。あれは一回こっきりの禁じ手です。だからこそ驚きがあった。深読みも機能した。

しかし、野島伸司はワンダーエッグプライオリティにおいて、ドラマ脚本の定石にのっとった、実写ドラマにあるような「友達の死の謎を追う少女」という、ありきたりのミステリを提示してきました。それは、エヴァのように脱線することが難しいフリなんですよね。そのオチを回収するものは、1つしかない。

すなわち「友達の小糸ちゃんは良いやつ/悪いやつ」でした、のいずれかしかない。で、大オチとしては「大戸アイはその時どうするのか?」ハッピーエンドに向かうのかバットエンドに向かうのか、という違いしかない。

作品の明るいデザインを見る限り、ハッピーエンドじゃないといけないとは思います。例えば戦いを通して、小糸ちゃんとは決別したけど、新しい友だちができました、とかね。でも実写の野島脚本では、だいたいバットエンドになっていたのでバットエンドもありえます。この絵柄でバットエンドに持っていったら、ちょっと驚くけど──でも、それも20前に野島伸司自身がドラマでさんざんやったよね? 何か新しいものあるのかな?

もちろん大戸アイが追い求める長瀬小糸の死の理由に関連して、さらになにか新たなミステリを提示するかもしれないですが、そのフリは今の所、なさそうなんですよね。そういう仕込みというのは事前に全体に対してやっておかないと、整合性がとれないので難しい。

それをやっていたなら凄いけど、今の所、シナリオ構造的にも目新しいものは期待できないんですよねー。

シナリオ構造から見る期待感の考察

今見えている範囲のワンダーエッグプライオリティの物語ラインを書き出してみます。

  1. 大戸アイの小糸の謎をめぐるミステリ
  2. その他3人と関連自殺者のミステリ
  3. ワンダーエッグ(ガチャや卵や、あの謎世界)に関連する戦いとそのミステリ

描いているのはこの3つです。これらを交錯させることで物語を進めています。

で、1と2というのは、先に述べたとおり、実写ドラマの定石で何一つ目新しいものはない。もちろん、シナリオの技法的にはすばらしくテクニカルにやってくれるのはわかってるんですけど、それはそれとして今の所のフリだと「そんなオチだったのね驚いた!」以外、目新しいものはなさそうなんですよね。

キモは3のワンダーエッグプライオリティとその世界が何なのか、なんですけど、これが今の所思想的にまちがっている。令和に合っていないというのは以前説明したとおりです。

登場する敵キャラがステレオタイプで、少女の純粋性を是とした古い2000年頃の価値観に基づいている。だから、チープなんですよね。

登場キャラから予測する、それを覆す可能性となりそうなものといえば、例えば「忌み嫌っていた敵キャラを少女たちが何がしかの和解と関係性を構築して受け入れる」とか「助けた自殺少女が何がしかの根幹にかかわっていて土壇場で4人の助けとなる」とかなんですけど、さてどうでしょう?そういうフリはとっても薄かった。

ワンダーエッグについての伏線は何らかの回収はするでしょうが、大人モンスターや自殺少女たちが何かの大きな転換点を内包しているとは思えない。

もし、あの「ステレオタイプな思想や少女の純粋性を是とする考え方」すらフリだったら凄いんですけど、あんまりやんないんじゃないかなー、そういうの。

ただ、いちおう今回、利発なねいるだけ、5話において少女性を否定する動きをしていました。それが意図したものかどうかは、ちょっと気になりました。

唯一の傑作となるための着地点が一つ提示されたこと

実は、さんざんディズって来た作品ですが、5話には唯一の正解の着地点の兆しがあった。

そこに物語がたどり着くことが出来るかどうかで、作品の価値が変わるとちょっと思っている。

作品のウィークポイントは前述したとおり「ステレオタイプな成長、大人になることを悪しきものとする思想、少女の純粋性を是とする考え方」ですよね。それは、平成頃だと尊いものとされてきたんですけど、まあ当たり前ですがお子様セールス用の全くの嘘で幻想であって、実は令和の時代においては生きることと朽ちることの自由と多様性を否定している悪しきものになっている。

だから、作品としては真水に泥が一滴落とされた状態にあると前に言ったんですけどね。

そこから、さらなる良質な作品になるには、野島伸司が以下のような考えに及ぶかどうかですよね。

少女たちは、汚れて朽ちてゆく事をちゃんとポジティブに受け入れる事ができるかどうか?

これをちゃんと提示したほうが令和の物語としては正しいんですけど、それをやるかどうかですよね。

5話時点のねいるの言動を見ると、ちょっとその可能性を垣間見たんですよ。

5話のねいるは、自身の背中を妹に傷つけられて、傷物となったカラダで生きることを選んだ事が明かされた。

そこには、まどマギでいうところの「魔女化」する爆弾が仕込まれている。敵対する大人モンスターになるトリガーがしこまれているんですけど、あれをわかってて全体構成を意識して作ってきているのか、それともあるエピソードの一つとして流してしまうのかが判断つかない。

それを軸にして、それが4人に派生したたら、ワンダーエッグプライオリティはとたんに令和の物語になるんですけど、やるかなー?

なんとも言えないところですね。

それ以外は期待できない?つまらない?

さて、前半ディスったんで後半はフォロー。んじゃあ、ワンダーエッグプライオリティというのは、引き続き見るべき価値がまったくないのか?という点について補足します。

前半のほうでいいましたが、この作品は構造としては旧作エヴァとにたようなものです。すなわち、新規性のある思想がなく、技法だけを駆使して積み上げられた物語です(今の所ね)。

それは野島伸司が活躍していた2000年前後にトレンドだったもので、今となっては目新しさのないものです。

そこで旧作エヴァを超える「時代を踏まえて、時代に即した思想を付与する」という試みをするかどうか、というのはあるんですが、そっちは厳しそうなので、じゃあ技法を楽しむしか無いですよね。

前にもいいましたが、シナリオ技法&物語技法、キャラの会話、やり取りや所作は、図抜けたものがありますよね。さすが野島伸司です。

さらにいうと、アニメーションも素晴らしい。庵野秀明はお話と作画の両方をやる羽目になりましたが、脚本とアニメがきりはなされたことで、ワンダーエッグプライオリティの若林信監督はもうほんとうに、全力でやってますよね。

そこは素晴らしく面白いし楽しいんです。

すなわち「新作のエヴァって、どうせ思想の無い物語なんだろうなー。でも、庵野秀明が繰り出す最新のアニメーションが見れるっぽいので、それを見に行こう」と同じです。作品に中身がないのであれば、脚本家と監督の技法を堪能することで、楽しむのが一番です。

ただ一つ、物語が「化ける」可能性があったので、ちょっとそこは楽しみになってきました。5話で現れた「ねいる」発の作品思想を覆す要素がどう機能するか? イチ不幸エピソードとして流れるのか、それとも「生きる」から「大人になる」「汚れる」「朽ちる」とかとかの発想につながるのか? そのへんの風色が変わったら、また解説&考察したいと思います。