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ワンダーエッグプライオリティは、ピュアな水に泥が1滴垂らされてしまっている作品?

ワンダーエッグ・プライオリティ

野島伸司脚本のワンダーエッグプライオリティ、とってもハイクオリティな作品ですが、一方で気になるところもありつつ。

僕も1話から3話まで鑑賞しましたが、非常に高品質で驚くと同時に、残念な箇所もあり複雑な印象。

前回よりも、違和感が明確に分かってきたので、そのあたりも含めて、前回に引き続いて、率直に書きたいと思います。

©WEP PROJECT

ワンダーエッグプライオリティの凄い&面白いところ

まず三話まで見て思ったのは、野島伸司さんの脚本、めちゃくちゃよく出来ているんですよね。

とくに、主要な少女キャラクターの感情の機微や1話あたりの原因と結果の貼り方が(そこに込められたメッセージはともかく)本当によく出来ている。

うまいなー。と思います。

例えば、3話。

川井リカが、大頭アイの部屋にころがりこんで来た時、一緒にケーキを食べましたよね。あの時、川井リカがズケズケと個人の感情でもって、友達を揶揄し、それに対して大戸アイが激昂する場面がありました。

あの辺りの二人の「コミュニケーションの断絶具合」が秀逸でした。

重箱のスミをつつくような評価点ではありますが──流れとしては、大戸アイが感情的になって身を乗り出したら、ドリンクをこぼして川井リカにひっかかる。で、その事故に対して、リカが一瞬、ほんとうにいやみったらしいリアクションをするんですよ。

そこで思い出すんです。「あー、これなんかうっすら覚えている。この一方的な拒絶するようなディスコミュニケーション、野島脚本ぽいなー」と。

©WEP PROJECT

その他にもちょっとした伏線の貼り方が抜群にうまい。

たとえば、川井リカはその腕に、自傷の痕を持っていますが、腕を攻撃されたことによって、期せずしてそれが大戸にバレる流れとかです。これは、なんのことはないシーンなんですが、物語上の情報提示の仕方としては、ほんとうに自然な流れになっていて上手い。

こういう細かな技法を駆使して、キャラクターに息遣いを与えて、作品の「ありえない展開」にリアリティをもたせるのが、本当に上手いと思います。脚本技法のお手本みたいなお話ですよ、これ。

また、演出も素晴らしい。

2話でもあった、普段は気弱な大戸アイが、強い意思を抱いたときの、キャラの変わり方なども良いですよね。声がとたんに太くなって、ヒーローみたいになる。

あの辺りの演出は、脚本に仕組まれた、丁寧な感情の流れを、若林信監督他の演出さんたちが、そのセンスでもってキチッと描ききった結果だと思うんですよね。

野島脚本のキャラのリアリティをさらに後押ししている。

お金もかかっているし、ほんとうにワンダーエッグプライオリティというのは、すばらしい造り手が集まって生み出された、質の高い作品だと思う。

ですが、その上で──

時代遅れの価値観に軸足を置く作品に見える

気になるのはやっぱり、その根底にある思想、物の考え方ですよね。それがとっても前時代的な考え方をしていて、今に沿ってない気がするんです。

いくつかあるんですが、まず顕著だった違和感が、2話と3話に登場した、中ボスのキャラクターです。

第2話で、大戸アイが倒した、新体操部の顧問教師ですが、モチーフとしては前時代的な脳筋コーチを題材にした悪として描かれていましたね。しかも何故か女性で。

やろうとしていることは、ちょっと過去にあった事件なんかも踏まえていて分かるんですが、これがどうも単なるステレオタイプな悪に見えるんですよね。

さらに第3話のマダムサチコもそうです。彼女は、アイドルに対する行き過ぎた愛情が具現化した悪になっていますが、これもなぜか女性で、しかも年齢の話をしちゃって、ただ悪戯に世代間闘争を仕掛けるチープなキャラクターに見える。

主人公側の彼女たちが、ある種の抑圧をトラウマとしそれに相対するのはわかるんですが、その解決方法が、子供だましで雑に思える。

え、敵も安直なら、倒し方も安直じゃない? と思えてしまう。

©WEP PROJECT

で、ふと気づきます。

この作品は、よく見ていくと少女の純粋性みたいなものを、圧倒的なまでに是であり善としていて、それを失った大人を悪としています。

©WEP PROJECT

つまりピュアであることは尊く、それを害する社会や大人は悪である、と。2000年代くらいって、そういう価値観をモチーフとして取り込んだ作品って結構多かったと思うんですが、今の時代って、そういうふうに単純な善悪や純粋さで物事を判断する時代じゃないですよね。

現代は少女の純粋性や、子供のイノセンスというのは単なる選択肢の一つでしかなくて、それ以外にある多種多様な価値観をいかにして尊重しあうのか、という時代にシフトしています。

世のコンテンツを見れば分かると思うんですけど、令和の今は、少女から顧問教師にならざるを得なかった女子や、マダムサチコにならざるを得なかった女子の、有り様を多様に描く時代なんですよ。

それなのに、このワンダーエッグプライオリティというのは、ただ純粋でなければいけない、という狭い価値観に基づいて、顧問教師とマダムサチコを単なる敵に押し込んだ。かつてマダムサチコや顧問教師が少女だったころの葛藤、そこに至る葛藤には一切ふれていないんですよね(3話時点で)。

こういうオール・オア・ナッシングな価値観はもう古いよなあ、という印象です。

じゃあ、最近の作品はどうなの?

何を言っているかわからないって?

じゃあ、最近の作品との違いを、ヒット作3つあげつつ説明しましょう。

まず鬼滅の刃です。あれは鬼にも人だったころの葛藤と苦しみと純粋さがある、という多面的な描き方をする物語になっていますよね。

かならず倒された鬼には抑圧と願望があり、ただ鬼舞辻無惨によって憎悪や欲望を拡大させられてしまった、悲しい人間なのだという描き方をしている。

次に進撃の巨人。あれも、巨人は実は人であり、壁の外にいたのは壁の中の国を恐れ、同じように世界を救う事を考えている人がいるのだという、多面的な物語です。

©諫山創・講談社/「進撃の巨人」製作委員会

例えばエレンはライナーに対して、自身と同じであるという結論を懐きつつ、さらなる破滅的な結末を目指しています。

最後に、呪術廻戦。あれも呪霊は人と同じように志をもち単なる悪ではない存在として描いています。

つまり、これら3つとも極めて多面的で重層的な物語なんです。

さらに、どの作品も、人を子供から老人まで幅広く多様に描いており、ただ子供の純粋性のみに価値観を押し込むなんて、狭い思想や価値観の事はしていないんですよね。

これに対して、ワンダーエッグプライオリティというのは、狭い視点に軸足を置いた物語に見える。どうやってもそのあたりがチープに見える。

子供だましのつもりはないんでしょうけど、こうして見ると、やはり思想的には古いと言わざるを得ないんですよね(今の所)。

ま、同時に、脚本家の野島伸司という人が、あの時代、どういう価値観をもって作品をつくっていたのか良く表しているな、とも思いますけど。

今も変わらぬ野島伸司という脚本家?

高校教師というのは今にして思えば古い価値観の作品です。

選択肢を持たず、探しきれず、ただただ状況に流されて、嘆いて、追い込まれていく男女をひたすらに描いたドラマでした。

そこにあるのは「解決の方法を提示しなかった」ということです。あの時代というのは、まだ社会においてワイルドカード的な問題解決のメソッドがなかったので、追い込まれたら絶望しかないんですよね。それがドラマに落とし込まれていた。

だから、せめて純粋であろうとしたんだと思うんですけどね。

そこには目新しさや衝撃はあったけども、多様さはなかった。多様であるべきだという提示もなかった。今につながる多様な価値観につながる糸口すらなかった。ま、エヴァもそうですけど、2000年代の空気感というのは、オチはどん詰まりの閉塞なんですよね。

多様さが謳われるようになったのは2010年代くらいですが、理由はネットの発達です。ネットというのはググれば、仲間や問題解決の方法を提示してくれる、ワイルドカードになった。

もっとも経済的には停滞していますが、試行錯誤すれば突破できるという可能性をテクノロジーが示してくれた。これが、今と20年前との、閉塞感の違いですよね。

しかし、ワンダーエッグプライオリティにおいて野島伸司がモチーフとして選んだものは、かつての時代の閉塞感を未だに引きずっているように思えるんですよね

その前時代的な視点は他にも違和感を生み出していたりします。

自身を汚すパートナーを徹底的に忌避する物語

ワンダーエッグプライオリティには、大戸アイらに相対する生活上の「対等な男子」や「対等なパートナー」というのがでてこないんですよね。のっけから、ただ少女の純粋性だけを追い求める物語になっている。(今の所)

これもめちゃくちゃ気になっている。

新海誠はかならず男女を出すんですよ。しかも対等な。細田守も百歩譲って対等な男女を出します。宮崎駿だってそうです。

ま、同作では視点を「ジェンダー的に身を任せるパートナー」と広げれば、大戸アイに対する長瀬小糸というのは存在していますが、これは理想化された友達であって、対等ではないし、LGBT的なものでもない。「昨日ご飯何食べた?」的な「おっさんずラブ」的なパートナーとは違いますよね。

で、見ていて思うのは、この野島伸司という脚本家は、ピュアであることに逃げ込んだ結果、少女に対する対等な生活パートナーや人生パートナーというのを忌避している気がするんですよね。

その傾向は2000年代の特徴かもしれません。

たとえば、同時期に、岩井俊二という映画監督がおるんですが、あの人も、花とアリスとかで純粋性のみを追い求めて、生活を共にする対等な男女の関係というのを描かなかった。つまり、理想に囚われて欠落した物語しかつくれなかった人だと思うんですよね。岩井俊二はそのせいで「世界的な監督」になることが出来なかったと思っています(スワロウテイルは中国でヒットしたけどね)。

つまりは、そういう価値観に逃げるしか出来なかった時代なのだろうと思うんですけど、それを今もってきて、物語として描かれても、ズレしかないし違和感しか無いんですよね。

少女や、まあ少年でもいいんですけど、ただひたすらにトラウマを忌避しピュアさを保持することの結末は自爆でしかないとエヴァでバレてますよね。それは庵野監督が体を張って示してくれました笑(結果として)。

しかし、現実は泥まみれで転がっていく訳でして、ここで未だにピュアさに拘泥する野島伸司という脚本家は、やっぱりちょっと前時代的な思想をもったクリエイターなのだと思わざるを得ないのです。

令和の人々はのたうち回って前に進む

事例を他にも挙げてみましょう。

たとえば天気の子はどうか?

新海誠の天気の子は、生活のために、ただただ逃げ回るだけの二人をまずはじめに描きます。二人+弟で、ネットをつかってメソッドを探して試行錯誤して生活しようと試みる。しかし若さゆえにどん詰まりに陥るんですが、この時主人公は純粋さを捨てて銃弾を放ち、ヒロインの手を取る。そして、世界を水没させ世界を敵に回すことを互いに選ぶんですよね。

あれが2000年代の作品なら、たぶん二人は究極の選択を迫られたあとで手をとって自殺するんですよ。それで幸せだ、という話になる。解決方法にたどり着けないことのほうがリアリティがあったんです。

しかし2020年だと、世界を壊しても他者を害しても、自分たちは今を生きるという選択をしている。

愛に出来ることはまだあるかい?⇒2000年代、何も有りません!二人で死ね!

愛に出来ることはまだあるかい?⇒2020年代、ワガママに二人で生きろ!

なんですよね。これが平成初期と令和のパートナーのありかたの違いです。

プロメアだってボーイ・ミーツ・ボーイで、パートナーと手を結び、夢よりも現実に立ち向かう。呪術廻戦も進撃も鬼滅も(鬼滅はやや保守よりだけど)、基本的には人と人は対等であり、純粋さに逃げ込んだりしない。ただひたすら物語の中の現実と相対して戦っている。

しかしワンダーエッグプライオリティにおける戦いというのは──実は、大戸アイは戦っているように見せつつも、トラウマの描き方や倒し方はステレオタイプであり、多様さのない古い問題解決方法を示しているように思える。令和の今は、あれ以外の解決方法がある時代なのにね。

そういうところが、どうもちょっと気になってしまう。

で、ワンダーエッグプライオリティは、どうなの?

作品の質は折り紙付きなんですよね。

作画すばらしい、キャラすごい、脚本は思想や価値観を抜きにすれば、衝撃な展開やドラマチックな場面を沢山見ることが出来るでしょう。

さらにいうと、野島伸司の超絶うまい脚本によって「ドラマ的な盛り上がり」は申し分ないほどもたらされるんじゃないかとも思っています。

ベースはとってもピュアな作品なんですよ。素晴らしいと思える。

だけど、そこで押し付けられる価値観は、今の時代だとちょっと古くなった、泥になってしまっているかもしれないんです。見せられるのは古い時代の狭い思想で、待っているのは、むかしどこかで見たことがあるハッピーエンドかバットエンドであって、何か新しい提言をするようなものではないかもしれない。

つまり、ワンダーエッグプライオリティは、たった一滴、古い泥を垂らされてしまった残念な真水かもしれない。

で、その水飲むんですかって話ですよね。

いや、(見る)飲むんですけどね、私は。だって、これだけの質の高い作画と脚本技法が織り込まれた作品ですから、飲まないともったいないお化けでちゃいます。

いずれにせよ評価は3話時点のものです。この先に、同作品が新しいものをなにか提示するのか、あるいは2000年代の純粋さとどん詰まりの価値観に閉じ込められた物語になるのか、そのあたりは引き続きじっくり見ていきたいなって思います。

2020年2月12日 追加考察書きました:ワンダーエッグプライオリティは、正しい物語なのか?そうでないのか?