2011年の原作発売から13年のアニメ化を経て実に9年の長きに渡って続いてきた俺ガイルが完結しました。終わってみれば、ウソのような青春を満喫した我らが比企谷八幡ですが、結局俺ガイルとな何だったのか、完結の感想を交えて個人的に感銘をうけたポイントをまとめてみます。
俺ガイルが試みたこと
この物語はご存知のとおり(?)通常の青春やラブコメに疑問を抱くひねくれ者の比企谷八幡の物語としてスタートしました。
それは、よくあるラブコメディのテンプレに対する、反旗であり抵抗です。初期は、比企谷八幡のニート的陰キャなキャラクターゆえの反骨心かと思っていましたが、物語が進むにつれ作者の視点の面白さや、キャラクターのリアルさや生々しさもあって、既存の「定石崩し」を飛び越えた、面白さをファンに提供してきました。
実は陰キャを主人公にした、という点以外はそこまで斬新な設定でもない俺ガイルです。特徴的なのは扱っていたテーマのほうです。劇中途上から「ラブコメ定石崩し」は既存の青春コンテンツへの疑いを経て、鋭い指摘をいくつも行い、さらには「青春」の正体がなんなのか? という問いかけにまで昇華したと思っています。
キャラクターたちの関係
この物語には青春について疑念を抱いている登場人物が二人います。それは比企谷八幡と雪ノ下雪乃です。比企谷八幡は、青春とそれに伴う押し付けられた学園テンプレ世界についての疑念──自身の納得いかない学生生活を「定石崩し」によってメタ的に切り崩そうと試みます。雪ノ下雪乃は「真っ向勝負」によって揺るがない自身を確立し既存のヒロインを破壊しようとします。以前伝えたとおり、この二人は対になっている存在で、それぞれ欠けたところがある問題のある存在です。単体では自立出来ない面倒くさいキャラクターが比企谷八幡と雪ノ下雪乃でした。
そこに作られたのが奉仕部です。先生は学内でも指折りの面倒臭さをもった比企谷八幡と雪ノ下雪乃をどうにかしたいと考えて引き合わせます。考えすぎることで自爆するという点において、比企谷八幡と雪ノ下雪乃は似た者同士ですが、当初二人はそれが分からず反目します。しかし、そこに由比ヶ浜結衣という、底抜けな善性を抱え持った潤滑油が投入されることで、この物語が素晴らしいものとなります。
由比ヶ浜結衣は、文字通り二人の潤滑油となり物語を進めます。そこには、はちまんとゆきのんが「否定した青春」は存在しなかったが「そうでない特別な青春」が新たに生み出され、それは三人にとってかけがえのないものになっていきます。過去の物語にこういう三角関係はみたことがありません。そしてたぶんこれからもこういう三角関係の物語は生まれないんじゃないかとすら思える──それくらい三人どころか視聴者も愛してやまない関係性が、気づけばそこに生み出されていた。
心地よさの理由
僕が思うに、この心地よい時間を生み出した3人の関係には3つの約束があります。
- 否定をしない
- 肯定もしない
- 言葉にしない
彼らは既存の学園生活を居心地の悪いものと感じており、自身の場所をさがしていました。比企谷八幡はその陰キャゆえに、雪ノ下雪乃はその真面目さ故に、由比ヶ浜結衣はその人の良さ故に、自身がのびのびと出来る場所がなかった。奉仕部の3人はそれが無意識にわかっていたからこそ、お互いを許容します。まず互いの事を面と向かって否定することは絶対にしません(冗談のやりとりではあるが、基本は許容)。しかし、肯定もしません(自身の、アイデンティティが失われるから※面倒くさっ)。そして最後に、肝心なことを言葉にしませんでした(言葉にすると「決まってしまう」から)。彼らは次第にその関係性の気持ちよさに溺れ方向を見失います。しかし、展開はそれを良しとしません。人生にはライフステージが存在し、人の気持ちというのは「嬉しい」や「楽しい」積み上がると「好き」に変わるんです。それは関係性の変化を後押ししていました。ほおっておいたら、いつか絶対に何かを決断しなければいけないタイミングがやってくることを物語っていました。
であれば、3人のその先には何が有りどこへ向かうのか? 通常の青春ラブコメであれば待っているのは「よくラブコメに存在する、リアルでは絶対にありえない恋愛的決着」ですが、俺ガイルはそれを選びませんでした。
俺ガイルはどこを目指したのか?
劇中途上に現れた、雪ノ下雪乃の姉は、共依存という言葉を持ち出して、三人の関係を(ラブコメ的)欺瞞だと八幡に伝えます。元々八幡も「青春はウソ」といっていたことから疑念をもっていた人物です。そして確かに客観的にみて三人の関係はありえないと思っている。なんならゆきのんもガハマさんも、ありえないと自覚していると思える。このままだとラブコメ的結末になってしまいかねませんでした。ここで俺ガイルは青春ラブコメでありながら、アンチテーゼの先のジンテーゼ──「ラブコメを崩しきった上で再構築」を試みます。
この物語には、途上から「ウソ」に対する「本物」という言葉が出てきます。結局、本物についての細かな解説はなされませんでしたが、劇中通してその言葉の使われ方から分かることがいくつかあります。
- それは恐らく作者自身も追い求めていること。
- 本物かどうかの判断は死ぬ直前まで付かない類のモノっぽいこと。
- それは視聴者の現実にもリンクしたメタ的で生々しいモノっぽいこと。
これら本物への渇望が作品を一点に収束させます。「本物本物言ってるんだから、ウソの展開をやらないんだよ!」と。つまりは、俺ガイルは「ラブコメ定石崩し」を徹底的に推し進め、開き直ってごく普通の男女関係を描くというルートをたどり始めました。
考えすぎて逆張りする比企谷八幡は、考え尽くした結果が認められ、奉仕部以外にも仲間を得て、まっとうな高校生活を手に入れます。親族におしつぶされていた雪ノ下雪乃は、自身の世界と見識を広げて輝きを取り戻しました。由比ヶ浜結衣は自分のウソみたいな善性の先に満足できる友と青春の日々を得て、キョロ充ではない自己肯定を手繰り寄せた。
綱渡りの果てに本物にたどり着いた作品
正直な所「俺ガイル完」の展開は、当初ちょっと疑問に思っていたんですよ。それってどうなの? って。展開がめちゃくちゃ普通じゃないですか?これは、物語定石でいったらかなり凄い進め方だったりするんですよ。一昔前だったら許されない終わり方なんです。極端な話、普通のラブコメなら「とつぜん誰かが瀕死に陥って大切さに気づいたり」「もっともらしい教訓を言い出す奴が出てきてそれでハッと何かに気づいて走り出したり」「記憶喪失とか無理やり物語のために一波乱起こって感動をもり立てたり」するんですよ(極端な例ですけど)。旧来のストーリーとストーリーテラーはそこに腐心するんです。ですが、俺ガイルは絶対にそんな事をしなかった。俺ガイルは構造的にそこを否定することで発進した物語ですから、それをできないんです。
その結果としての10〜11話で──あれっ、はちまん普通にガハマさんフッてゆきのんに告白した!?
はちまんの探した「本物」に対するとりあえずの結論は「普通であること」であり「ウソの青春ラブコメをしない」ということでした。しかしこの結論は、メタ的にひっくりかえって逆にリアルに見えて、すばらしく心地よかった。アニメなのに良質な連ドラみたいに見えた。
そして、比企谷八幡は物語とともに、一つの結論を導き出したように見えました。先に述べたとおり、本物かどうかは、たぶん死ぬまでわからない。それを決める段階にはない。分かっているのは陰キャ的に逃げるのではなく、今の自分にとっての「大切」を守るためには奮起し続ける必要があるらしいということ。しかし比企谷八幡は、自分が本物かどうか、ずっと疑い続けるんです。はたしてそれが自分にはできるのだろうか? と。ゆきのん姉の指摘したとおり。でもこれ、実は現実の僕らがずっと抱えている不安とおんなじなんですよね。
僕は、物語の完結を経て俺ガイルがたどり着いた嘘偽りのない結論が一つあると思っています。それはたぶん、青春であれ友情であれ恋愛であれ人生であれ「本物は面倒くさい」というお話。加えて「本物であろうとすることも面倒くさい」ということ、けれど「だからこそ楽しいし価値がある」んだ、と。それが俺ガイル完が期せずして伝えることになった、一つのメッセージなんじゃないかな、と思いました。
ラノベ発であるにもかかわらず、構造的にそれを伝えることになった俺ガイルは、とんでもない作品だですね。素晴らしい作品を本当にありがとうございました。
追記:最後まで生々しい俺ガイル
完12話劇中、一色いろはは由比ヶ浜結衣に悪魔の誘惑をしました。比企谷八幡と雪ノ下雪乃は長続きしない。寝盗ればよいのだ、と。その判断と展開は、リアルにおいては大いに有り得る話です。こじれた末に比企谷八幡と雪ノ下雪乃が別れて、由比ヶ浜結衣と付き合うという未来すら、正統な展開として想像させてしまう。それはあまり嫌な気がしないし、なんなら、そのままダラダラと三角関係がつづくまである(それこそ本物の共依存ですが)。安易にラブコメ的な定石結論に逃げず、破綻の可能性まで想像させる俺ガイルは、本当に稀有な構造をもっている。
そして、比企谷一家は引き続き一色いろはを使い潰す。初見でいろはすの扱い方を見抜き、関係性を一瞬で作り上げた比企谷家の長女、比企谷小町おそるべし。そっちでスピンオフしてくれ。