まだ5話なのに「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完」の物語が佳境にさしかかっている。早くもセカンド&サードヒロイン脱落の匂いがプンプンただよっています。この結論の方向は、わかりきったことではありますが──ここへ来てゆきのんが、久々に存在感を増している。忘れていたけど、彼女は物語のメインヒロインですよね。
俺ガイル人気ヒロインがちんこ勝負
俺ガイルの人気ヒロインといえば、ガハマさんこと「由比ヶ浜結衣」いろはすこと「一色いろは」ですよね。萌え属性てんこ盛りのほんわかギャルのガハマさん。現実世界のどっかでみたことがあるような、リアリティのある後輩キャラクターをアイコン化したいろはす。客観的に見て、二人とも他のライトノベル系ヒロインなら、主役を貼っていてもおかしくない強キャラです。しかし、この俺ガイルではそうはならなかった。なぜならば、才女にして美少女、そして物語から最大の優遇を受けている、正ヒロイン「雪ノ下雪乃」がいたから。
しかし、俺ガイルという作品においては、ゆきのんは、中盤どうもパッとしないんですよね。それというもの、登場する主要な人物たちが魅力的すぎる。どいつもこいつも強烈に存在感があって、控えめで自己主張の少ない雪ノ下雪乃は影が薄い。ど天然で八幡との関係をひっかきまわす由比ヶ浜結衣や、小悪魔めいた存在感で距離をつめてくる一色いろはのほうが、どう考えても目立ってしまう。
そっちがメインヒロインでもいいじゃない? なんて思ってしまいますね。 しかし、雪ノ下雪乃は物語の第一話から八幡に絡んでいた正ヒロインとしての立場があります。そして、やっぱり八幡はゆきのんの元に戻ってくる。
正ヒロインの優遇措置と不満
ゆきのんは、優遇されています。まず、彼女は才女でお嬢様で運動神経もよく、しかも美少女というチート属性を付与された最強スペックの存在です。次に、俺ガイル劇中で学校以外に大きな「悩み」を抱えているのは、雪ノ下雪乃だけになります。これ結構重要です。
一方、由比ヶ浜結衣、一色いろはは、最強萌え属性と最強小悪魔属性を付与されたヒロインでありながらも、悩みといえば「八幡との関係」のことか「学校の些細なこと」しかありません。対するゆきのんは、おそらく冒頭からその才覚と美少女さの裏に「課題」を抱えているという「仕込まれた」キャラクターで、八幡と対になるように用意されたキャラクターになっています。
細かく観ていくと俺ガイル劇中の学園内には、実はチートキャラは2人しかいません。一人は主人公であり作者視点の代弁をする八幡。これに対して、唯一対等な存在として用意されているのは、実は一番最初からいる才女にして美少女のゆきのんです。八幡が彼女に認められ受け入れられることは一つの物語上のミッションになっていました。構造上、それはわりと早い段階に達成されてしまいましたが、本質的な「問題は彼女の背後にある」という形で物語をひきのばしてきました。話は物語当初から確定しているんですよね。八幡とゆきのんの物語だ、ということが。
でも、ちょっと納得行かないところがありよね。ゆきのん。彼女は、劇中屈指の高スペックキャラであるにもかかわらず、どうも途中から共感も応援もしずらい気弱キャラになっていました。
ゆきのんの抱える悩みは、大人からみれば結構些細な話です。親が自身を認めてくれない。こういう状況はハイティーンあるあるかと思います。彼女はチートなまでに才覚をもち、美少女であっても、そういうところは一介の高校生なんで、親にすら負けてしまう。しかも、その抱えるドラマもちょっと弱いと思える。やっぱり、キャラとして魅力的なガハマさんや、いろはすの方が「定番ラノベヒロイン」としては向いているんじゃないかと思う。よく動くしコロコロ表情を変えるし。わかりやすい。
一方のゆきのんは、存在が独特です。羽川翼に対する戦場ヶ原ひたぎとも違う、ラノベヒロインにはわりと不必要な面倒くさーい、優柔不断な繊細さまで付与されている。
なんだんだろう? ほんと、ゆきのんなんなん? 共依存だから?
ヒロインじゃないかもしれないゆきのん
さて、俺ガイルには共依存ということば出てきますが──そっちは劇中用語でしか無くあまり関係ないと持っています。この物語の本質は別の所にある。ちょっと視点を変えて俺ガイルのキャラの関係性や構造をみていくと、ゆきのんはもしかしたら単純なヒロインじゃないかもしれない、という事に気づきます。
話を整理します。チートな八幡は現代の悩める読者や視聴者を反映したキャラクターです。世界を斜めに見て本質を見抜き戦いを挑む──そして勝つ。今どきの世代のやりかたを理想化して表していると思います。彼にとって世界は敵で、課題は常に外部に存在します。その中で、悩みを持つゆきのんは、八幡に対して唯一気を使わせるヒロインで、小町を除いて、唯一「内側における選択のジレンマ」を内包した存在です。
どういうことかと言うと、俺ガイルの定番のやりとり──物語における奉仕部の行動は悩み相談であり問題解決です。それは、ほぼ全て「正論」に対する「極論や暴論」によって解決がなされてきました。そして「極論や暴論」はもちろん八幡が請負います。一方の「正論」はほぼずっとゆきのんが請け負ってきました。八幡とゆきのんは、この点において物語を象徴する「対」になった関係です。
八幡は劇中そのキャラクター性でもって「正義」や「善意」を捨てています。しょっぱなからやさぐれた存在でした。そういうものは、ゆきのんが一手に引き受けていたんです。この2人の関係から、ゆきのんが劇中のどのキャラクターにもない役割を担っている事がわかります。
さて、ここで現実社会の我々のことを考えてみましょう。我々が物事を判断するとき「正論」と「暴論や極論」のどっちを選びますか? おそらく、それはケースバイケースでしょう。正論を選ぶこともあれば暴論に出ることもある。しかし、通常それを判断するのは一個人の内部で、一人です。これが──俺ガイルでは二つに分化し、わかりやすくキャラクター化された。天使と悪魔に。雪ノ下雪乃と比企谷八幡という存在に。
これ、通常のドラマは、正論と暴論の行き来を主人公が一人でやるんです。天使と悪魔の戦いは主人公個人の中に内在していた。ところが、俺ガイルはそれを学園ドラマのキャラクターとして、分けてキャラクター化してある。それによって、内在する葛藤を表のドラマに人物として登場させ、数々のとても魅力的な展開を生みだしている。
悪魔は天使に回帰する
つまりは──雪ノ下雪乃というのは八幡から分離した「チート善性」なんです。比企谷八幡という主人公は、自分の中にある正義感や理想的な有り様、ルックスを持つコンプレックスの対象である「雪ノ下雪乃」に常に向き合って、愛憎入りまじる関係を繰り広げてきた。雪ノ下雪乃が美人なのも才女なのも、繊細なのも、ちょっと体力がないのも、気弱な一面があるのも、全部八幡が捨てたものなんです。或いは八幡が欲しくてしょうがないものの対象なんです。
そして、俺ガイルという物語は、比企谷八幡が自身がやさぐれて捨てたかも知れない「ゆきのん」という、善意と向き合い、折り合いをつける、成長物語なんですよ。そう考えると、ゆきのんは単なる正ヒロインを超えた存在ですよ。さらにいうと、由比ヶ浜結衣や一色いろがゆきのんと争うということは──比企谷八幡のチートめいた善性、比企谷八幡の分身と戦っていることになります。そりゃ、無視されるし入り込めないし、勝てる訳がない。負け確定ですよ。別の世界線の話はスピンオフか薄い本で楽しむしかない。
比企谷八幡は、その善性の獲得のためにゆきのんに回帰するのが確定しているんです。ゆきのんはヒロインというより八幡の一部なんですね。
何故このラノベが凄いのか?
毎回、宝島社の「このライトノベルがすごい!」に選出されてきた俺ガイルですが、今にして思うと、何故選ばれたのかと言えば──やっぱりゆきのんという善性を切り離し、ツッコミ役として側に置くことで八幡の暴論を正当化してみせた、この構造ですよね。どんなに八幡が無茶をしても、ゆきのんがいて八幡をツッコんで理解することで、八幡の善性が担保されるんですよ(ま、そこについてはガハマさんほか外部のキャラもある程度役割を担ってはいますが)。このキャラクター配置、作者がどこまでわかってやったのかなんとも言えない所ですが、たしかに「よくできていて凄い」んですよね。あまり見かけない。
八幡だけ単体で存在していたら、そいつがいくら葛藤していようが、単なるクソ野郎か純文学になってしまいます。それをキャラクターラノベとして人物配置することで、軽妙な今っぽい会話を交えてドラマしてみせたのが、俺ガイルの凄さです。
さて、最後にもう一つ。
理想化された才女であり美少女である「雪ノ下雪乃」というのは、実は八幡の切り離された分身というだけではなくて、読者や視聴者の分身にもなり得るんです。八幡が陰キャの理想化した「我々」を象徴するななら、ゆきのんは目指したい&欲しい「正統な理想化された才能でありルックスであり繊細さ」です。だからイラつくしパッとしないこともある。架空のキャラクターというのは往々にしてそういう側面を持つものだとも思いますが、まさに、ゆきのんこと雪ノ下雪乃は、俺ガイルにおいてヒロインを超えた構造をもったキャラクターかも知れませんね。
以上、今回はそんなお話でした。