俺ガイル〜一色いろは/いろはすのあざとい変化から見えるキャラの魅力や生々しさの理由

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
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魅力的な俺ガイルのキャラクター

俺ガイルといえば、とっても魅力的なキャラクターがいっぱいいますが、どうも普通のテンプレキャラとは違うように感じますよね。深みがあるというか、表情があるというか、実際にいそう&やりそうな振る舞いをすることもある。しかも、それがとてもドキドキする。なぜ魅力的なのか、そこにはどんな秘密があるのか考察してみたいと思います。

キャラのテンプレ

ラノベやアニメーションのキャラクターというのは、情報圧縮のために、しばしば設定や人物をテンプレ化します。俺ガイルも、ヒロイン他多くのキャラクターが、目新しさはあるにせよ、過去のキャラ類型の延長にある。材木座、戸塚、小町、ゆきのん、ガハマさん、あたりは誇張されたキャラテンプレ。主人公は俺様クール×陰キャなところに目新しさがありますが、これもテンプレだと思います。

しかし、そこは俺ガイル、そんなテンプレキャラでも、どうも妙に生々しくリアリティがあると感じるキャラクターがちらほらいます。中でも、僕が特に気にしているのが、いろはす、あーしの2人。個人的にはこの2名には親近感を覚えつつ、本当によく出来たキャラクターだな、と思っています。そして、そこには最近の他のキャラクターモノコンテンツにはない特別な秘密があると思っています。

あーし/三浦優美子

まず、あーしから考察してみましょう。彼女は、一見スタンダードなクイーンのキャラテンプレに見える。

「あーし」という言葉自体、昨今流行りのギャルのキャラ類型だったりします。ベースの彼女の行動原理は極めてシンプルです。学園ヒエラルキーの頂点に君臨するために、自身の立場で出来るすべてを駆使して、(自分の考える)好ましい相手には身も心も寄せ、そうでないものは全力で抑圧し排斥する。社会人になってからこういう人物を結構みかけたんですけど、女子がやりがちな悪辣な部分がわかりやすく描かれている。ただまあ普通のキャラテンプレだと、そこで終わってしまうんですが、彼女は、よく見るとテンプレに収まらない振る舞いをしています。

彼女はメインキャラではなく、準レギュラーですらないにもかかわらず、物語が進む中で変化しています。具体的には、八幡やその周辺に対して「自身の権利を害されない範囲で心を開いてゆく」んですよね。

それだってキャラテンプレと思われるかも知れませんが、後半モブ化してからの振る舞いに絶妙に生身の女子っぽいリアリティがある。あーしは、おそらくクラスでは引き続きヒエラルキーの頂点に立つ女子であろうと思いますが、クラスメートがあるべきヒエラルキー構造に収まったら、以後、クイーンキャラとして、それを維持することについて腐心します。しかし、ただ維持するだけではなく、葉山が比企谷八幡を認めている事実も察して、絶妙な距離感で応対している。

普通、物語において嫌な奴というのは、嫌なままか、あるいは心を開いて親しくなったらワンピみたいに友だちになっちゃって逆に馴れ馴れしいくらいグッとよってくる。作者としては面倒くさいので、キャラはしばしばオール・オア・ナッシングに設定しがちなんです。しかし、あーしは、物語の後半にさしかかって、さほど重要ではないキャラになった後も、八幡との関係性において絶妙な距離感を保ち、クラスの女王としてリアリティのある立ち位置にちゃんといる。作者のこの人物との距離感の作り方は、ほんと丁寧だなー、と思いますね。

何が丁寧かというと──俺ガイルは、劇中、生徒会長なりそこね女子とか、八幡が中学時代に告白した相手との関係なども描かれますが、彼女たちは八幡に対して、ずっと苛烈な対応をしていた。一方、あーしは葉山経由で「あいつ、そんなに悪いやつじゃないよ」という情報が入れらた結果として、自身の邪魔にならない範囲であれば普通に応対する、と判断が変化している。そこには、葉山の認めた八幡というキャラクターに対しての配慮がある。

そういう、関係性と情報量の違いが、キャラの距離感にちゃんと反映されているあたりが、この作品のリアリティに繋がっているんだと思います。最近のラノベもジャンブも、多くはキャラクターってのは「敵」か「味方」か「モブ」にしか分かれない。しかし、そうじゃないポジションに収まって、出てきたらそれなりに存在感もあるのが、俺ガイルのキャラ設定の素晴らしさであり、それをあーしは、生々しく象徴していると思うんですよね。

いろはす/一色いろは

続いて、いろはすの生々しさについても考察してみたいと思います。

皆んな大好き、小悪魔あざといテンプレのいろはす。俺ガイルのガハマさんゆきのんに続く第三のヒロイン。ラノベ的キャラテンプレと現実女子のリアリティが、もっと魅力的にバランスよく収まっているキャラクター。あーしが、同級生クイーンにおける距離感をリアルに反映したキャラクターとするなら、いろはすは、下級生クイーン女子のリアルさの象徴です。

いろはすは、集団における生存戦略のために、自身のかわいさを逆手に取って、時に知的に、時にか弱く、媚を売り、根回しをし、頭を下げ、攻撃し、八幡の前に、現れては消えます。その振る舞いのすべてが「あざとい」訳ですが──ただあざといだけででもない。いろはすは本当にこまかく周囲を見て、その「あざとさ」を行使する、けっこう知的なキャラクターとして描かれている。

ええと、俺ガイルにおけるキャラクターの特徴的な行動に「観察」というものがあります。どのキャラクターも、誰かを観察している。観察した上で、コイツにはこういうリアクションという、筋道がちゃんとある。通常のラノベやアニメキャラは、まず関係性が先にくる。AとBは責めと受けだとしたら、それで関係は以後ほぼ変化しないが、変化したらガラッとかわる等、関係性の面白さありきで作られている。

一方、俺ガイルでは、それぞれのキャラクターが事件を通して周囲を観察しアクションをすることで、何段階ものプロセスを経て変化していくんです。そしてさらに面白いと思うのは、変化しているにもかかわらず大枠のやりとり自体はあんまり変わっていないというあたり。

多くのキャラクターの八幡に対する反応のアウトプットは「キモい」なんです。これは一貫してかわらない。でも「キモい」に込められたニュアンスがどんどん変化していくんですよね。でも通常のキャラコンテンツにみられるような「キモい」から「好き」への変化ではなくて「キモいA」から「キモいB」へと移るという繊細な変化をみせている。俺ガイルは、これを丁寧にやることでリアリティを生み出している。

いろはすは八幡に対する「キモい」のニュアンスがどん底の嫌悪から最上級の好意へと最も大きく変化したキャラクターです。そういう変化とか成長とかを見ると、読者や視聴者はそのキャラクターに親しみを覚えます。ゆきのんもガハマさんも、初っ端でラノベ的「ちょろい」凋落がされちゃってるので、実はあまり変化していない、メインヒロインと八幡の関係はけっこう惰性なんですよ。だからいろはすの変化は、いっそう際立つ。

いろはすは「ちょろく」なかったし、今も「ちょろく」はない。しかし正当に八幡に想いをよせる。しかも今も変化している。第三のヒロインであるがゆえに、八幡には手が届かないと理解している。だから、せめて同じ高校生活をしている間は、好意をよせる人達が楽しめるようにと奮闘するんですよね。

ここは、あーしにも通じるところがある、オール・オア・ナッシングではない変化です。これが女子キャラとして生々しくとてもリアリティのある行動に見える。思い出とか感動とか、そういうもののためにいろはすは動く。狂言回しとはちょっと違う、原因と結果を持った動きが、女子をより女子らしくリアルにしている。

作品上は八幡の主観で描かれるから、直接描写は無いんですけど、彼女の変化は言動からありありとみてとれる。そこに命が宿り魅力を感じる。

生っぽさの理由

つまりは、俺ガイルのキャラの魅力やリアリティというのは「変わらぬ言動」と「変わった感情」を絶妙に行動とか会話とかでちゃんと段階をつくって表現していることで生み出されている。

僕たちは普段、誰かを好きになったからって、ストレートに「好き」と言わない。でも、絵で描かれたキャラクターコンテンツで、しかもライトなものは「好き」といわないで「好き」と伝えるのが非常に難しい。そんな中、俺ガイルはちゃんと「段階」を経て「言動のつぶさな変化」やってみせているんですよ。嫌悪していたころと変わらぬ言動で、振る舞いや距離感や配慮、ノリやツッコミの関係性を変えて「好意」を描いてみせる。そこが、僕等にとって俺ガイルが、リアルで生っぽく魅力的に感じる理由ですよね。

この辺はホント、作者のセンスとかバランス感覚の賜物だよな、とおもう。テンプレをつかっているようで、テンプレに逃げていない。作者が見てきた人間関係を丁寧にそれぞれのキャラクターに落とし込んでいる。僕らが日常的につかっている言葉や振る舞いを逆手にとって、キャラクターに載せて表現している。

そうして、魅力的なキャラクターたちを生み出している。

以上、俺ガイルの生々しいキャラとその魅力についての考察でした。

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