※11話次点のネタバレあり。
俺ガイル完11話で、ひっきー、ガハマ、ゆきのんのトライアングルは第一期からひっぱってようやく関係性の決着がつきました。
いやまだ、俺ガイル完自体は終わっていませんけどね。
正直な所、5話〜6話次点で、実質的にこの三角関係の結末は見えていたんですが、多くの原作未読勢としては、じゃあそれを誰がどのタイミングでどう伝えるのか、というのも一つの見どころだったと思います。
告白と失恋、そしてはちまんの決断
そして第11話「こいつ本当に誰かを選ぶとかできんの?」と、ずっと思っていた比企谷八幡が、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃へ、自らの想いを、どちゃくそ遠回りに伝え──まず、由比ヶ浜結衣を退け、返す刀で今度は由比ヶ浜結衣に、核心的な言葉は言わないが、周辺事象から察するに実質プロポーズだよね、とも思える告白をした。
その際の、比企谷八幡の男前な言動が、当初のキャラとの乖離が激しくて若干気持ち悪かったんですが、その結末やゆきのんとの関係性については、二人は互いに欠けた身体どおしの関係なので(別記事参照)問題ありません。というか、ああいう慌てふためいたゆきのんは新鮮で、そしてやっぱりゆきのんは、はちまんに匹敵するポンコツなんだな、って言うのがよくわかり、ごちそうさま感もあって、結構ハッピーな告白だったと思う。
対するガハマさんへのはちまんのリアクションは、あまりにもナチュラルにガハマさんの気持ちに気づかないフリをして、ゆきのんへの気持ちを吐露したから、ああコイツ本質的にはサイコパスなんだろうなって、思いました。何か、サイコパスが、膨大な事例をあたって感情や社会性の勉強をしているのが、俺ガイルとはちまんの物語なんだなって。
今回の11話のポイントは、今まで、3人の関係については、まったくもって積極的に介入することのなかったはちまんが、ようやく三期の11話にして、自ら決断し動いた、というところにあります。予想では、ガハマさんのほうが先に突拍子もないうごきをする気がしていたんですけど、結局お菓子作りとかいう、ゆきのんはちまんのチートっぷりには遠く及ばないアプローチで終わってしまった。三人でいたい、という言葉から最終話にもう一つアクションあるだろうけど。
やはり俺ガイルはわかりづらいし文学してない
さて、長々と前置きをしましたが、見ていて本当に思うのは「俺ガイル、わかるんだけどちょっと分かりづらいよねー」という話。要所要所で「共依存」とか「本物」とかそれっぽい言葉が出てくるんですけど、基本的には彼らのやり取りは、時事ネタを含む、ノリとツッコミによる台詞回しに終始しており、物語の核心に迫る「指摘」や「表現」「論説」というのは、実は結構薄っぺらい。雪ノ下陽乃のセリフも先生のセリフも、遠回しに言っているだけで、本質をついた言葉を絶対に吐かない。
この作品は物語冒頭で「青春は悪である」というすばらしいお題目を掲げているじゃないですか? あれってようするにコピーなんですけど、コピーって文学的素養と言語センスと社会的バランス感覚を必要とする、けっこう大変な作業な訳ですよ。で、青春は悪であるのくだりのコピーをつくってみせた作者は凄いなー、なんておもっていたんですけど、どうもあれがMAXだった。
俺ガイルは、言語化するとチープになるから、と本当に本質的な言葉による指摘を避けている。僕は初め、逆手にとってそういう構造にしているのかと思いっていたんですけど、どうやらそうではなくて、やはり作者の技術の無さが言動を狭めてしまったのかな、と思っている。構造はちゃんとしているのに、言語がついてきていない。
ただ一方で判断が難しいのは、俺ガイルというのは現代の特定世代の振る舞いについて、とんでもないリアルさを持っているんですが──以前いろはすの振る舞いにからめて指摘したとおり、生々しい言動がほんとうに魅力なんですよね。そこが本当に素晴らしい。しかし、加えて現代の特定世代が文学をもたない、というリアルさまで反映しちゃっている。これが狙ってやっているのか結果としてそうなったのか、俺ガイルのある種のパッケージ化に一役買っているんですよね。
以前、俺ガイルは文学だ、って言ったんですけど、11話みて思ったのは「これ文学してないね」という結論でした。情緒を意図して言語化&構造化していない。それを避けている。だから、非常に分かりづらい。感銘を引き出せない。何かいい話してるけどなんなの?という。これが実写の映像だったら、役者の表情や空気感でフォローできるんですけど、アニメだとのっぺりしているので、情報量が少なくて本当に分かりづらかった。
うーん、このあたりは本当に難しいと思いました。制作陣も苦労したんじゃないだろうか? 原作だとどういう描写になっているのかは、わかりませんけど。
二次元コンテンツにおけるベタだがよく分かる文学的な告白や失恋
じゃあ、文学的に失恋と告白をやった作品てなによ? となるんですけど、最近のわかりやすいのでいうと、化物語かな。
失恋は羽川翼。告白は戦場ヶ原ひたぎ。
羽川翼は、つばさタイガーで苛虎という自分の嫉妬の炎と戦ったあとで、阿良々木暦に告白し、そしてフラれた。その一連の情緒は、嫉妬の炎という恐ろしい怪異を消すにはフラれる必要があった、というロジカルな構造もあって、非常にわかりやすい。
阿良々木さんは、羽川翼を友だちとして命をかけて助けるが、恋人にはせず、ひたぎさんを選びそれを告げた。羽川翼は泣いてそれを克服し自分のものとした。その一連の構造と言動が文学的なんですよね。
戦場ヶ原ひたぎについてもそう。戦場ヶ原ひたぎは、おもし蟹を倒す手伝いをしてくれた阿良々木暦に好意を懐き、ある夜に星を見に行った先で告白をする。そこには、世界に対して不信を抱いたまま堂々巡りに陥っていた戦場ヶ原ひたぎが、自ら他者と未来に対して一歩を踏み出しのだ、という物語上の構造があって、そのプロセスと一連のセリフは文学だった。
ここでいう文学とは色々定義あると思うんですけど「そのままだと言葉になっていない事象を言語化し構造化して意味を与えること」としておきますね。
西尾維新の、物語構造と言動と描写についての才能が図抜けているというのもありますが、どうしてもそういうものに対して、俺ガイルは構造的に拙いと感じてしまいました。
ただ一方で──
センスとバランス感覚のみで描ききった作者のすごさ
俺ガイルは展開構造とかルート自体は間違っていないんですよ。情緒の広げ方もとんでもなく良く出来ている。ちょっと、冗長で断片的だけれど、よくこの結末にちゃんとたどりついたな、と思っている。はがないとか、俺妹とかラストに向けての取ってつけた感がすごかったじゃないですか? そういうものにはしないんだ、という気概が感じられた。
これを完遂したのは、作者の持っているバランス感覚でありセンスだよなあと。別記事で指摘したはちまんとゆきのんの互いを補完しあう関係性とか、たぶん自覚してやっていないんですよ。やってたら劇中で、ゆきのん姉とか、先生が指摘している。ゆきのん姉は共依存と断じたけど、そうじゃない指摘もできるんです。それが分かっていたら作家というのは劇中でそれを指摘せずにはいられない。
でも、作者が言語化できていないままに、真っ直ぐに正しい結論に走っていった。こういう結論が正しいよね? と提示してみせることができたのは、一つの才能だよな、と。
さて、何がいいたいかというと、ようするに「俺の青春ラブコメはまちがっている」は完成された惜しい作品なんです。そして、これを送り出した作者の、さらなる作品はとっても期待度が高いなと、11話を見ていて思いました。
あといろはすの抱き枕買うかどうか悩んでいます。