進撃の巨人〜兵団カップリングに見るスクールカースト・コンプレックスと、残酷で美しい世界の行方

進撃の巨人
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進撃の巨人が漫画でも、そして、アニメ版でも佳境に入ってきましたね。

相変わらずのクオリティが素晴らしい限りですが、今日はそんな進撃の巨人について、その作品の出自と行く末について、何となく思っていることを書いてみます。

兵団の人間模様がどうもリアル学校に見える

さて、タイトルのとおり僕が気になっているのは、訓練兵団とそこにある人間模様です。

兵団って、ようするに学校ですよね?

兵団には、様々なキャラが揃っていましたね。エレン、ミカサ、あるみん、ライナー、ジャン、マルコ、コニー、サシャ、クリスタ──運動部がいて文化部がいて、美少女がいてヤンキーがいてバカがいる。そいつらはムカつくこともあるけれど、心を開けば概ねいいやつ。

まさに学校。

つづいて少し、個別のキャラを紐解いてみましょう。

まず女子。ミカサ、アニ、クリスタ、ユミル、サシャ。そのどれもかなり強いか美しい。

たぶん女子が強いのは作者の趣味ですよね。あるいは近くに強い女子がいたのかもしれません。ちょっと理想が強いですが、しかし、思うのは彼女たちのありかたというのは最近の実社会のリアリティを反映したものなんじゃないかということです。特に、ゼロ年代以降の男女格差是正の価値観をバチコンと受け取った結果のキャラ設定に思える。

続いて男子。エレン、アルミン、ライナー、ジャン、ベルトルト、コニー、マルコ。男子は脳筋もいれば、陰キャもいるし、馬鹿もいる。

これは、誰もが知る学内のキャラクターですよね。スクールひな壇です。おそらくこの中の幾人かは作者の分身でしょうが、それはそれとして、こちらは世相というより実際の学校になぞらえたリアリティがあります。

特に、コニーやライナーあたりが気弱な姿をみせるのは、とてもリアリティがあった。エレンの振る舞いとかはたぶん完全に作者の反映ですよね。

女子は儚くも強い。男子は肉体的には強いがアホで弱い。そういう美学ですよね、進撃のキャラって。

さらに彼らのカップリングも学校っぽい。美少女にヤンキー少女がうざ絡みし、運動部は運動部でつるむ。リーダー役っぽいイキりヘタレがいるし、いじられる田舎者キャラやアホがいる。エレン、ミカサ、アルミンだけ特殊だけどね。

で、この訓練兵団やキャラクター群像から読み取れるのは、やっぱりどうも、ある種の学内的なものから世界を見た時の恐れを表していると思うんです(ま、このへんはよく言われていることだとも思いますけど)。

スクールカーストの延長

さて、ココまで来て改めて言います。

進撃の巨人の兵団って、もっというと進撃の巨人の組織って完全に「学内ヒエラルキー」の反映で作られてますよね。

リヴァイやハンジって先生感がすごいですよね。あるいは先輩感というか。登場人物全員、資本主義的な会社組織や社会というより、学校に近い距離感で存在している。

社会人の皆様方はご存知かと思いますが、普通の会社組織や社会組織というのは、もっと関係性は断絶していてドライですよね。そして距離を詰めるまでに時間がかかる。しかし進撃の巨人のこと人類側の組織は、とっても学校的で何処へ行っても均一で予想可能な範囲の親しみやすさや機能を持っている。というか僕には徹底的なまでに学校めいた関係性に見える。

そこには、鬼滅のような家族的な生活感はあまりない。これは原作者が若くして、デビューした結果かもしれませんけど。つまりは、進撃の巨人というのは、若い原作者が抱いている学校的な組織についてのこだわりと、世界や社会に相対する時の認識が如実に反映された「スクールカースト的な価値観の延長」に作られた物語だってことです。

それは作者のプロフィールからも伺いしれます。

原作者はサッカー部時代に劣等感を抱いています。エレンの訓練兵時代の失敗や振る舞いはそういうものを反映しているかもしれませんね。それから、学生時代って出来る人と出来ない人との差ってほんとうに残酷なまでに開いていましたよね。たとえばミカサやアニがモンスターに見えるのも、持たざる者からの印象を反映したものであるかもしれません。あるいはリヴァイが化け物じみているのもそう。ちょっと知っているか知らないかだけで、本当に差が開いて感じられる。

つまりは、この作品は学校という場と人のあり方に何がしかのコンプレックスをもっている作者の心情が随所に反映されていると感じる。

コンプレックスから生み出された期待と不安のメッセージ

だからなんだって話ですよね?誰しもそうじゃん、と。

さらに少しだけ踏み込んだ話をします。

作者は、作品に夢をつめます。それはどんな原作者でもそうですよね。

ということは進撃の巨人にも、学生時代にはなし得なかった作者の願望が込められていると思うんです。それを紐解くと、進撃の巨人がぐっと面白く感じられると思うんです。

その願望は細かく言うとお決まりのあのセリフ──

「世界は残酷だ、そしてとても美しい」

です。作品当初は「たぶん」という言葉が枕についていたと思いますけど。この言葉は作品が「学園ヒエラルキーの期待と不安の延長にある」と考えると、より深く身近なものに感じられると思うんです。

劇中で、エレンやミカサたちは、調査兵団で仲間を作ります。しかし、蓋を開けてみれば、そこに集まっていたのは、各々のどす黒い思惑でもって行動する、あるいは行動することを強いられた若い人たちでした。

彼らは、それぞれの大人たちの指示によって、そうであることが正しいのだからと、命をかけた仕事を強いられます。それは、片方の思惑からすれば、塀の外を調査し蹂躙することですが、もう片方の思惑では内部から食い破ることですよね。(余談ですがこれって社会における右翼的なものと左翼的なものにそのまま当てはまったりします。作者も無自覚でしょうけど)。

そして、親しくなった仲間たちはそれぞれの寄って立つところの思惑によって相対することになってしまう。厳しくも楽しかったスクールライフは終わりを告げ、ただ厳しいだけの社会がやってくる。挫折を味わった学校生活(訓練生活)なんてものは、ここに至ってはまだ楽なものだったとすら思える。いっぱい苦しいし、いっぱい挫折するし、いっぱい死ぬ。しかし、しかし、彼らはそれでも前を向いて進むんです。このあたり、現実とおんなじですよね。つまり「世界は残酷だけど美しい」ってほんとうに現実世界のことでもあるんだと言っている。そこに作品内で繋がっている。

本物になったキャッチコピーが示唆する期待感

で、最近ですが、進撃の巨人においての「世界は残酷だけど美しい」は、ここへ来て本当に秀逸なコピーになったと感じています。

思うのはこの言葉を選んだのって、多分当初は「決め打ちの見切り発車」だったと思うんです。「世界は残酷、だけど美しい」ってデビュー当時のあの若さで本当に自覚できていたと思えない。だから願望なんです。原作者は、当初は学生あがりのコンプレックスのまま兵団を作って物語を紡いできた。

それが、作品が進むにつれて、本物になっていっていると感じる。進撃の巨人は、見切り発車のキャッチコピーに実績と結果がついてくる物語になってると思うんです。だからすごい。ヒットし作品を作り続けることで、「世界は残酷だけど美しい」にぶれない物語展開が行われ、それを作者が実現しちゃった。

これホントに凄いことだと思う。だいたい失速するもん、こういう「大風呂敷」というヤツは。だいたい漫画的作品におけるコピーは架空のまま終わるんです。とってつけたようなものになってします。ところが進撃の巨人においては違うんです。作者諫山創先生連動で作品がコピーとともに成長してきた。

闘争の果にエレンは何を見るのか? それはまだ誰にもわかりません。物語は物語として終わるでしょうが、まだ若かった作者の「スクールカーストコンプレック」めいた物語は、作者自身の成長とともに、結構普遍的なモノの大切さを教える物語に昇華すると思うんです。そんな兆しがある。

「進撃の巨人における壁や巨人は外への恐れ」というのは、もうずっと言われた話だと思いますが、それは若い人たちだけでなく、今を生きるあらゆる人に当てはまる。学びの時代を経て、困難に相対した時、果たしてどの選択が正しいのか? 実はそういうものの答えも、進撃の巨人を見ていれば、読者も作者も自ずと分かってくるんじゃないかな。

そういう期待感をヒシヒシと感じる。僕は、そんな認識でもって引き続き「残酷で美しい世界」を描こうとする物語を読みたいなって思います。

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